日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。

食べたいものを作るのか、食べてもらえるものを作るのか

自分の食べたいものを作る母

私の母親は料理が得意だ。手際もよく、一時間も使わずてきぱきと3~4品ほど作る。味も保証されているし、持ち合わせている料理のレパートリーも豊富だ。

けれども一方で、子供が好むメニューの多様や、子供の好き嫌いに合わせて調理方法や盛り付けを工夫するなどの努力は好まなかったように思う。もっと言えば、同居している父方の祖母に対してさえ(食のこだわりが強い人で、年齢も関係しているのかもしれないが、生もののすし、ハムなどの加工肉、練り製品全般を受け付けない)、特別な配慮(祖母にだけ別メニューを作るなどの)はしていなかった。祖母の食べられそうなメニューももちろんそろえつつ、食べられない素材は避けて食べればよいというスタンスだった。

 

後に母から聞いたのだが、母の料理の基本姿勢は「自分が食べたいものを作る」というものだったようだ。思い出してみると、父も時折母の料理に(味付けではなく、メニューそのものに)小言を言うことがあった。けれども、母は専業主婦ではあったものの、もともとの性格が幸いして??か、そんな父のストレートな言動に対しても特別気に病むことはなかった。「だったら食べなくていいよ!!」と言ってのけることもあったぐらいだ。

そのおかげか、母は自分の料理が丸々手を付けられずに残されてることに対して、特別心を動かされることはなかったように思う。

もっとも、私たち子どもが小さかった頃はそれなりに心を配っていたのかもしれない。けれども、表現は悪いが「子供に媚びるような」気配りはしていなかったように思う。

 

 

食にこだわりがないと主張する夫

以前こんな記事を書いた。

ponnsuke.hatenablog.comb

夫は食にこだわりがない。けれども、食材や味付けには好き嫌いがある。矛盾しているように私は思えるのだが、夫自身はそうは思っていないようだ。好き嫌いはあるものの、よっぽどひどい味付けでない限りは料理に全く手をつけなかったり、一口二口箸をつけただけで残すといったことはまずしない。

 

 

私は料理自体は嫌いではない。いやむしろ好きなほうだと思う。けれども、自分のペースで好きなものを、思いつくままに作れる状況などの様々な前提条件が揃ったうえでの”好き”であって、家族一人一人の好みや健康管理、お財布事情や時間の縛りなどの制限があっての料理にたいして、単純に好きと言えるのかろうか??と問われると・・・・・・微妙なところだろう。(もっとも、そんな好き気ままに料理を楽しむことができる子育て中の母親など、まずいないのだろうけれども)

 

 

私は、母の料理スタンスを基本としつつも、割り切って好き勝手に料理をすることに違和感を覚えてしまう。

だからこそ、自分の都合や好みを優先して、苦手だろうなと想像しながらも、残されることを想定しつつチャレンジすることもあっても、常に罪悪感がついてまわる。自分の食の好み、冷蔵庫に残った食材の組み合わせ、調理工程の簡単さ・・・・・・理由はどうであれ、相手が好んで食べないだろうな、と容易に想像できる料理を、私は頻繁に食卓に登場させることができない。

それ故、「自分が食べたいものを作るのか、相手に食べてもらえるものを作るのか・・・・・・」どちらに転んでも、私はどうにもすっきりしない。

 

 

食育としての毎日の食事~”娘たちに食べてもらえるものを作るのか、食べてもらいたいものを作るのか・・・・・・”

娘たちに料理を作る時、どういった姿勢で献立を考えるのが正しいのだろうか??

”娘たちに食べてもらえるものを作るのか、食べてもらいたいものを作るのか・・・・・・”

 

もちろん、正しい答えなどないのだろう。けれども、好ましい答えというものは、育児書やネットなどのたくさんの情報の中から多数決を取れば、おのずと出てくるはずだ。

 

栄養バランスが整った”食べてもらいたいもの”を作って(もっと言えば、そんな食料理を娘自ら食べたい!!と積極的に思ってもらえること)、そうしてそれを完食してもらうこと。

 

これが、私にとっての一つの理想であり正解だ。けれども、現実はそう簡単にはいかない。

努力と工夫で「食べてもらえるもの」を地道に増やしていくことが一番の正攻法なのだと頭ではわかはいる。いるけれども、現実はそんなうまい具合に事は運んではいかない。

 

 

娘たちの食事への心のハードルの下げ方

もっともらしいことを書いてはみたものの、上の娘の偏食や食べムラなどにずっと悩まされ続けいる私にとって、上の娘との食事の時間は、正直に言うと単純に楽しいだけの時間ではない。幸い、下の娘は何でも食べてくれているのでとても助かってはいるのだけれども。

 

身近にいる夫に食の関心が薄いこと。娘にとても甘いこと。頼りにしている母親の楽観的な性格(対娘ではなく、対孫であるという甘さも手伝って)などなど。理由は様々だが、私だけが日々一人で空回りしている状態だ。

 

 

もっと言ってしまえば、「娘の正しくない食生活が心配で仕方がない」という素直な気持ちだけではなく、「何かあった時に(生活習慣病や、肥満などの極端な体形変化)、一番に責められ責任を追及されるのは自分なのだから」という、非常に自己中心的でいやらしい考え方も、正直大きいように思う。

上の娘の朝食の介助はもっぱら夫の担当だ。そこで夫は、娘の好きなメニューしか出さない。(基本料理はしないので、トーストやシリアルなどが多く、野菜を積極的に食させる習慣がない。おかずも何種類か作りおいているものの、娘の好きそうな食材を選んでお皿に盛りつけているだけだ)

 

時間に追われている夫は、娘が「栄養の有無にかかわらずおなかの足しになる何か」を、その場その場で食べれば良しと考えているきらいがある。けれども私は、「栄養のある何かを」コンスタントに食べてもらいたいと思っている・・・・・・

 

けれども、きっと娘の心や体に何かが起こったら・・・・・・医師や保健師から注意と指導を受けるのは夫ではなく私だろう。

 

だからこそ、まわりからの「まいっか」や「食べてくれればいいんじゃない」という耳障りの良い言葉につど流されながらも、日々悶々としてしまう。

 

もしかしたら、夫や母親のように、もっと割り切った考え方が無意識にできるならば、精神衛生上私にとっても娘たちにとってもよいのかもしれない。けれども、頭ではわかっていても、なかなかそれを実行することが私にはできない。 

役割分担として、家事・育児と仕事と分け合うこと

何度も書いているが、私は専業主婦である。

だからこそ、家事育児は私の仕事だと思っている。

 

けれどもその一方で、夫が家にいる時間(夫の出社前と帰宅後、そうして休日)は、もっと主体的に家事育児をしてほしいと思っている自分がいる。

もっとも、夫なりには家事・育児を積極的にやっているつもりなのだろう。けれども、家の中で自分が主体的に中・長期的な目線を持って動いていると、夫のその場限りの家事・育児に対して、「もっとこうしてほしい」という欲求がむずむずと頭をもたげてしまう。そうして、そんな気持ちを抑えることがどうしてもできなくなってしまう。

 

 

夫の休日における家事と育児

これも繰り返しになるが、夫は自分の仕事が休みの日には、ほぼ毎回最低でも約半日の自分だけの一人時間を持つことを当然の権利だと思っている。一方の私は、休日にワンオペ育児を強いられることに、違和感と苛立ちを感じている。

 

私にとっての休日のワンオペ育児は、「サービス残業」つまり本来だったらする必要のないワンオペ育児という「しんどさ」を時に味合わなければいけないという、少しの不安を常にはらんでいる。もちろん娘たちと一緒に過ごす時間はとても楽しい。けれども、純粋に楽しいだけかと問われると・・・・・・。

 

一方で、夫にとっての休日はどうだろうか。おそらく彼にとっての家族サービス(家事や育児をしている)の時間もまた、純粋に楽しいだけの時間ではないように、私には映ってしまう。(隙をついては、一人で外出したがるなどの夫の何気ない小さな言動の一つ一つが、私にそう思わせる)

 

このお互いの感覚のズレが、日々のイライラを生んでいるのだろう。

私は夫に「主体的な家事と育児」を求め、夫は夫で私に対して平日と変わらぬ感覚で「主体的な家事と育児」を求めている・・・・・・

もっとも、夫としてはそのような意識は毛頭ないのかもしれない。

けれども、一人時間を意識的に、そうして休日のたびに確保し、ほんのちょっとした隙間時間にどこででも居眠りをする。そうして、家事と育児を無意識のうちにえり好みをしている。

そんな夫の姿を見ていると、「自分は動かない、動けない、動けないことを仕方のないことだと許容している」=「相手=私に対して主体的に家事と育児をすることを求めている」と私はどうしても受け止めてしまいたくなる。

もっとも、この考え方の癖は直すべき悪癖のひとつなのだろう。けれども「この考え方の癖は、私だけの問題なのだろうか??」と言う疑問が常に頭の中にあるせいか(夫が主体的に家事と育児をしていない事は理由はどうであれ事実であるため)、なかなか素直に自分の気持ちを切り替えることが出来ない。

 

 

役割分担として、家事・育児と仕事を分け合うということ

 

ケースバイケースなのだろうけれど、家事・育児と仕事の分担の仕方について、一方が仕事をしていない場合、大まかに以下の三つのパターンに分けられるように思う。

 

A,家事・育児と仕事を、完全に分け合う。仕事を担当している人間は、自分が休日であっても家にいても、決して家事・育児はしない。

 

B,基本方針としては、家事・育児はそれぞれで分け合う。ただし、仕事を担当している人間は、自分が休日であっても、家事・育児を主体的に行う。

 

C,B同様基本方針としては、家事・育児はそれぞれで分け合う。ただし、仕事を担当している人間は、自分が休日であり、かつ自分の体調や都合がついた場合のみ、気が付いた範囲で(もしくはパートナーにお願い等された時など)家事・育児を行う。

 

私にとっての役割分担に対する意識の基本はAでありたいと思っている。けれども、自分の能力やその時々の精神状態などを鑑みると、かなりの頻度でBを求めたいという心情にどうしてもなってしまう。

 

一方、夫にとってのそれはBを理想としながらのCであり、時と場合によりAにならざる得ないというのが現状のようだ。(夫の言い分としては、気力と体力と能力がついていかないゆえのAなのだろうと思うけれども)

 

 

相手の状況、自分が置かれている条件次第で「仕方がない」と思えるボーダーラインが違ってくる私

 

夫が仕事の時間、出社前、帰宅後の忙しい時間、目に見えて疲労困憊しているときは、私は素直に「仕方がない」とあきらめることができる。けれども、夫が一人時間を楽しんでいる時間、ソファーで居眠りをしている時間、一人時間の影響で帰宅後ひどく疲れているときなどは、単純に「仕方がない」と私はあきらめることができない。(本音を言えば、出社前や帰宅後も、気力と体力に余裕がありそうなのであればもっと積極的に動いて欲しいと思うときもあるのだけれど。私ありきの家事と育児に対し、手放しで助かったありがとう!!と言えないときも、正直あるため)

 

その一方で、日々娘たちと接していると、「母親は常にニコニコの太陽であるべきだ(ありたいと思う)」と言う考え方が日に何度も頭をめぐり、反省と後悔を繰り返しているせいか、夫に対しても「もっと寛容に、おおらかな気持ちで接するべきなのでは??」という疑問もまた頭の中をしばしば過ることがある。

だからこそ、素直な自分の心の声と、「こうあるべき(ありたい)」という理想像との狭間で、もやもやとしてしまうのだろう。

 

自分の心に素直になりたい。けれども、そうすると母親としてダメになってしまうような気がする・・・・・・そんな思い込みが、自分で自分を苦しめているのか知れない。

他人を変えることはできない、という正論について

会社員時代から考えていたことがある。「他人を変えることはできない、変えられるのは自分だ」という考え方についてだ。

当時、人間関係や仕事自体にいろいろ思い悩んでいた。悩んでいても事態は何も変わらない。わかってはいても、なかなか自分を変えることはできなかった。そんなかつての悶々とした黒い感情を、不意に思い出させる記事が最近更新されていて、改めて考えるきっかけになった。以下二つの連載記事だ。

yasunao-papa.hatenablog.com

yasunao-papa.hatenablog.com

 

 

しんどいと思っているときに、変わる努力を強いられることへの理不尽感

当時も、何人かの友人に愚痴交じりに話を聞いてもらうことが多々あった。今思い返すと、非常に迷惑な話だったと思う。時に感情的になりながら、同じ展開の話を繰り返してしまっていた。

 

理性では、「他人を変えることはできない、変えられるのは自分だ」という正論を理解できてはいた。いたけれど、それを自分の中で咀嚼し納得できていただろうか??と問われると、答えはノーだ。

 

冷静になって考えると、結局悩みの根っこは会社員時代の言動と考え方の癖と、育児中の今のそれとで、全く同じものだ。

自分に自信がないがゆえに、自分の未熟さをカバーすべく、努力と我慢を重ね(時に別方向に過剰な熱量を注ぎつつ)、その結果相手がその努力と我慢の上に胡坐をかくようになり(言葉は悪いが)、結果自分の相手への不満が徐々に蓄積され、限界まで達した後爆発させるという悪循環に陥ってしまうのだ。

 

けれども、当時も今も極限に「しんどい」と思っているときにはどうしても、自分を変えることに対して

「今現在苦しんでいる、被害者であるはずの自分が、さらに苦しみを伴うであろう自分を変える努力をなぜしなくてはならないのか・・・・・・」

という疑問が頭から離れなくなってしまい、行動を起こすことが難しくなってしまっていた。

これも私の直すべき悪い考え方の癖なのだろう。単なる屁理屈だとも思うのだけれども、うまく考え方を改めることができない。

 

 

いじめられるほうにも原因がある、という考え方

いじめ問題を語る際の意見の一つに「いじめられるほうにも原因があるのだから、いじめられるのは仕方がない」というものがある。客観的に考えると理解できなくもないと思う一方、だからと言って「仕方がない」といじめを黙認してしまうのは、当然間違っている。

 

自分が人間関係でしんどさを感じているときに、私の中で葛藤が起きる葛藤にとてもよく似ているように思う。

「自分に非があるのだから、我慢すべきだ」

「いや、だからと言って理不尽な仕打ちを強いられるのは、間違っているのでは??」

思うに、そんな反論が頭から離れないがために、「自分を変える努力」に身が入らないのかもしれない。

 

 

自分を変えられない理由。求めているのは、「他人を変えるための魔法の言葉」

恥をしのぎ、非難を覚悟で言うと、「しんどさ」を感じているときに、私が心から求めているのは、「他人を変えるための魔法の言葉」だ。

こうして文字にして書いてしまうと、我ながらなんて無責任で卑怯な人間なのだろうと思う。けれども、これが本音であるように思う。だからこそ、どうしても自分から積極的に変わろうという意欲が出てこないのだろう。

 

卵が先か、鶏が先か。

理不尽な扱い(思い込みも大いにあるのだろうけれど)を受けていると、相手の非を盾に、「相手も、自分の非を多めに見てしかるべきだ」と私は思ってしまいがちだ。それ故、素直な気持ちになれないのだろう。そうして、ますます関係は歪なものになってしまう。

 

 

結局は、だからこそ「他人は変えることはできない、変えられるのは自分だ」という正論に落ち着く。

書籍やネットでも勉強した。頭ではわかっているのだ。けれども簡単ではない。

もっとも、簡単ではないからこそ、永遠のテーマとして、自己啓発本などで語り続けられるのかもしれないけれども。

夫に対して、我慢と努力を求めてしまうこと

最近購読を始めたブログに、このような記事が更新された。

www.utsu-joso.com

 

私の育児は、ワンオペではない。けれども、夫の帰りが娘たちの寝かしつけの時間とかぶっていること、その寝かしつけは基本自分がしていること。夫の休日は自身の休息と気分転換をかねて、基本一日一回(小一時間から半日、時には丸一日)は一人での自由時間があることから、近くにいる両親を頼りつつも、娘達だけと過ごす時間も少なくないこともあり、色々考えてしまった。

 

 

 

私にとってのワンオペ育児 

我が家の場合、自分の実家は近いし協力的だ。夫も、ここ2,3ヶ月は仕事が立て込んでいるとはいえ、9時には帰宅できている。サラリーマンなので、月に7日程度は確実に休みがある。最低限の家事・育児は積極的にしてくれる。義両親との関係も良好だ。

 

であるにもかかわらず、日々の生活の中でどうしてもワンオペ育児をしているような感覚に襲われる瞬間がどうしても生まれてしまう。核家族であり、かつ夫はサラリーマン(在宅勤務もできない)なのだから当然だ。

おそらく、一日の中で一番忙しい夕方の、「お風呂・夕食作り・食事の介助・寝かしつけ」を一人でこなさなければいけないことが、一番のプレッシャーなのだと思う。

 

私の両親は、「あくまで、我が家とポン助一家は別家族。手助けはするけど、一家の主(夫)中心の生活をすべし」と言う考えを持っている。そうして、私も両親と同じ考え持っている。

だからこそ、当然のことながら、一人で家事育児をこなさなければいけない時間帯が、一日の中でどうしてもできてしまう。(よっぽどのことがない限り、実家で夕食をとることはないし、上の娘が嫌がるのでお風呂を入ることもない)短時間であっても、ワンオペ育児にならざるを得ないのは仕方のないことだ。

 

 

我慢をしている私、夫に我慢を求めてしまう私

一人での家事育児は正直私にとってはしんどい。だからこそ、そのしんどさを軽減するための努力や工夫をすることになる。

私には、家事と育児の同時進行が難しい。それゆえ、娘達が寝ているとき、機嫌よく一人遊びしているときなどに家事を集中させている。

また、下の娘だけの時間のときは、おんぶをしながら家事をする事も多い。下の娘は、まだ8キロ台だ。それでも、長時間おんぶをしていると、体への負担は大きい。そんな我慢の上に、私にとっての一人での家事育児は成り立っている。

 

 だからこそ、仕事で家を空ける場合は仕方ないにしても、休日や出社前や帰宅後などの夫の在宅時に、ワンオペ状態になってしまったり、自分が我慢を強いられる状態が続くと、その行き場のない苛立ちを夫にぶつけるべく、夫にも同じ苦しみを味あわせたくなってしまう。 

 

もっとも、 夫に我慢を求めず、自分で工夫をして解決できることもあるだろう。件のブログで紹介されていたように、一時保育を利用する、家事代行サービスを利用する、最新家電を利用する、などなど方法はいくらでもある。もっと積極的に自分の両親に甘える、という選択肢もゼロではい。

けれどもそれらの解決方法では、私の不満は解決されない。夫がくつろいでいる(ように見えるだけでも)ことが、不満のみなもとなのだから。

 

夫が仕事で家を空けざる得ないのは仕方のないことだ。そこは割り切れる。

けれども夫が家にいるときに、自分だけが我慢をしているという状況に気づいてもらえない、気付いているけれども見て見ぬふりをされている。そんなシチュエーションに(自分の思い込みも多々あるのだろうけれど)不公平感を感じてしまうのだ。

しんどいとうメッセージを常に発信している私に、共感はすれども、時に積極的には手を出してはくれない夫に対する不満は、私の被害者妄想を大いに刺激する。

 

また、夫にとっての休日のひとり時間は、自分の心身のリフレッシュに必要不可欠だと主張しながら、私のひとり時間は、物理的に難しい(自分一人では下の娘のお世話ができない、いざとなった時に対応しきれない)という矛盾した主張もしていることも、私の不公平感を刺激させる要因の一つだ。

私がひとり時間を持てないのは、仕方のないことなのだろうか??という疑問が、常に頭から離れることはない。

 

 

夫婦は対等だと思いたい、けれども思えない私。

夫婦は対等だと人は言う。

家事育児を自宅でしていると、家の中が職場のような錯覚を覚えてしまう。一方、夫にとっての家は、くつろぎ心安らぐ場所だと思っている。

そうして、くつろぐ夫を前にして、自分の食事もままならない状況で立ち働いていると、なぜだか主従関係のような歪な関係性を夫と自分の間に見出してしまう。

これも私の直すべき考え方の癖なのだろうが、卑屈な気分にどうしてもなってしまうのだ。

 

だからこそ、そんなマイナス感情を消化すべく、夫に対しても自分と同様の我慢と努力を求めてしまうのだと思う。

 また、私と夫が同時に家事育児をしているときには、夫には「無理、できない、やりたくない」という選択肢があることに、私自身が大いに嫉妬してしまっていることも無視できない。

 

 

上手いガス抜きの方法を自分で見つけるほか、解決策はないのだろう。

けれども、現状で思い浮かぶガス抜き方法では、どうしても100%の満足を得ることができない。

この100%の満足というこだわりが、もしかしたら一番の厄介なのかもしれないけれども。

「簡単なもの(食事)でいいよ」という言葉は、優しさの表れなのか??

こんな記事を見つけた。

blogos.com

 

我が家は共働きではない。けれども、2人の娘がまだまだ手がかかること、核家族であること、夫の趣味がアウトドア系で一人出の外出がままあることから、夫が気を利かせて上記のようなニュアンスのセリフ「簡単なもの(食事)でいいよ」をかけてくれることがある。

たいていが、夫の仕事が休み日の、昼食や夕食であることが多い。そうして同時に、夫が一人外出をしたか、もしくは家族で外出をしたか、のどちらかの条件が付くことも多い。

 

 

もっとも、料理をしたくない時にこのセリフを耳にすると、私は非常に気分が悪くなってしまう。私の場合、夫が一人きりで過ごせる自由時間を満喫している、という条件が加わると、特にそう感じてしまう。

 

私(ポン助)も疲れている、作りたくないのでは??という考えに、どうして至らないのか、と。

どうして、自分で食事を作るという発想がないのか、と。

 

 

外食や、総菜などに頼るという選択肢ももちろんある。けれども、我が家では経済的に、頻繁に気軽に選べるものでは決してない。

我が家は、夫から定額の生活費を貰ってやりくりをしているため(足りなくなったら都度貰っているものの極力額面内で納める努力はしている)、生活費が足りなくなり月末に節約生活を強いられるだろうという心理的負担感があるからだ。

 

だからこそ、簡単なものでも自分が作らざるえなくなる。(夫に作ってほしいとお願いしても断られてしまうため)

 

 

夫にとっての「簡単なもの(食事)」

夫にとっての「簡単なもの(食事)」は、私にとっても簡単なものであることが多い。けれども、それは同時に、物足りないものであることも多い。メニューもしかり、ボリュームもしかり、品数もしかり、栄養面もしかり。

今の季節はソーメン。

寒い季節はうどんやラーメン。(鍋に面と具材を一緒に入れて煮込むだけ)

チャーハン、カレー、スパゲッティや焼きそばなどの単品料理も多い。もっとも、チャーハンやカレーなどの時は、栄養面を考え、極力スープ(圧力鍋で煮込むだけ)とサラダ(生野菜を切っただけ)を私はつけるようにしているのだけれど。

 

 

食にこだわり(知識と意識)がない夫、多少のこだわりがある私

幸か不幸か、夫は食に対して全くこだわりがない。毎日カレーでもよいと発言したこともあるぐらいだ。

一方の私は、多少のこだわりがある。母親が料理好きだったことも影響しているのかもしれない。総菜に対する罪悪感もある。(母親が総菜を嫌っていた。味やコストパフォーマンス、栄養面を理由に)

また、時折母親との会話の中で、「野菜を取りなさい、たんぱく質を取りなさい、目標は一日30品目よ」などと助言されていることも大きいように思う。がっしりした(ぽっちゃりした??)夫の体つきを知っているからこその発言だ。

 

それゆえ、夫にとって簡単なもの(食事)では、私は満足できなかったり、妥協もできなかったりしてしまう。結局、ひと手間、二手間を加える(スープやサラダを加えるなど)ことになってしまうため、私にとっては「簡単なもの(食事)」は、簡単ではなくなってしまう。

 

 

「簡単なもの(料理)」の後始末、という考え方

主に料理を作るのは私だ。だからこそ、栄養面や健康面がとても気になる。

夫も私も決して痩せているほうではない。おまけに、上の娘は家ではとても偏食だ。(幼稚園の給食や、お弁当では好き嫌いなく食べているのだけれど)

子供の食事について、栄養面は一週間を通してトータル的にバランスが取れていればいいですよ、というアドバイスを受けたことがある。けれども、現状そのバランスがとてもとれているとは、私には思えない。それ故、私は一食一食に神経質になってしまいがちだ。毎日の一食一食の食事で、栄養を貯金しなければ、と考えてしまう。

対して、夫はそのような心配をあまりしていない。自分が料理をしないこと、栄養面に頓着しない性格、娘と食事を共にする回数が私より少ないことなどが理由だろう。そのため、栄養面の偏った「簡単なもの(食事)」へのハードルも低い。

 

 

そしてもう一つ。これは私のわがままなのだが、手抜き料理の頻度を一週間、一か月単位で考えると、今がその手の抜きどころなのか??と疑問に思ってしまう、というのも大きいように思う。

食にこだわりのある私は、我ながら面倒くさいが、毎週カレーとか、麺類が続く献立に、抵抗というか罪悪感を覚えてしまう。そのため、「今手を抜いてしまったら、明日手を抜きたくなっても、手を抜けなくなってしまう」という、強迫観念めいた考え方に陥ってしまいがちだ。そうして、夫が家にいて、家事と育児を切り離せることができているとき、その貴重な手抜きという手段を使ってもよいのだろうか??と、ついつい自問してしまうのだ。

 

もしかしたら、この偏った思考の癖が、一番の「簡単なもの(料理)でいいよ」というセリフへの嫌悪感の理由なのかもしれない。