日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。

自分がされて嫌なことは、相手にはしないという考え方

先日、上の娘が秋の遠足だった。

けれども目覚まし時計に全く気が付かず、時間ギリギリになって夫に起こされる形になってしまった。

ただでさえあわただしい朝の時間。私は遠足の準備をし、朝食を整え、お弁当を作る。夫はいつもどおり上の娘の食事のサポートや身支度を手伝う。けれども、せわしないだけでない、なんともいえないぴりぴりと張り詰めた空気が、朝から充ち充ちていた。

 

 

前日の夜に準備万端整えていればよかったのだけれど、それを怠り、自分の趣味を優先してしまった。ついでに、自分の夕食が遅かったこと、連日娘たちと一緒に寝てしまっていて、夜の純粋な自由時間が持てていなかったことを理由に、夜更かしもしてしまった。 

完全に自分に非がある。それは紛れもない事実だ。

そのため、夫の「あと15分早く起きていればこんなにバタバタしなくてもすんだのに」という正論に言葉を返すこともできず、だるさと空腹を抱えたままいつものように娘のお弁当の準備と夫の朝食の準備をした。

 

けれども一方で、私が寝たのは夫が布団に入った10後だったこと。しかも、寝入りに下の娘が起きてしまい、寝かしつけに手間取ってしまったこと。そうして夜泣きの対応のこともあって(たった一回のことではあるしすぐに寝てくれてはいるのだけれど)、万全ではない体調だった私は、体だけでなく心もひどく疲れてしまったのも事実だった。

 

 

自分が許しているのだから、相手からも許されたいと思った私

 

私の夫にも直してほしいことはいくつかある。つど小出しにして要望は伝えてはいるのだけれど、なかなか改善されないことがいくつかある。

その中の一つに、生理的欲求つまり睡眠に関することがある。

けれども、これに関して私は、自分の意志でどうこうなるものではないのであきらめる努力をしている

 

私の夫は、ソファーに座るとものの5分で寝ることができる。例え、娘たちが騒いでいようとも、目の前にやらなければいけない家事が残っていようとも。そうして、一度寝てしまうと、いくら起こしてもすぐには起きない。

そんな時、私は態度には出てしまっているのだろうけれども、夫がいないものとして行動する。例え、いつもの休日の一人時間を存分に楽しんだ後の転寝だったとしても。起きない(起きられない)ものは仕方がないのだ。

どんなに自分がしんどくても、起きない(起きられない)相手に何かを要求することは、ひどくばかげていることだとも思う。

 

 

夫に自分と同じ思考・行動を求めること自体が間違っているのだと思う。そうして、夫と私では置かれた状況も、与えられた役割も違う。

けれども、私が不快に思い、常々直して欲しいと思っていることを「仕方がない」と改善する努力や代替案を提示しない夫から、なぜ自分ばかりが責められなければいけないのか・・・・・・

その日、そんな不満を、夫に対して抱いてしまったのも、事実だった。

屁理屈だとも思う。思うのだけれども、心奥底で、こんな本音が渦巻いているが為に、夫に対して素直に反省し、体質改善の努力や対応策を考え実行を徹底するとことが、私にとってとても難しくも思えてしまう。

 

 

自分がされて嫌なことは、相手にはしないという考え方。

 

遠足の日の朝、夫に言われた言葉は図星だった。けれども、私なりの言い分もあった。

そこをぐっとこらえたのは、相手の努力不足で起こった出来事において、自分が何かしらの不利益を被ったとき、例え相手にどんな理由があろうとも、何か言い返されたりしたら面白くないだろうな、と私は思ったからだ。

少なくとも、もし私が夫の立場だったならば・・・・・・

不愉快に思ったはずだ。

 

けれども、このような考え方をしているせいで、言いたいことも言えず、何かにつけて気持ちを抑え込んでとしてしまう自分がいるのも事実だ。

 

 

【反省】娘たちに対しはどうだろうか??

 

近頃、上の娘が私が起こること(叱ることではない)に過剰に反応するようになってしまった。自分が夫から怒られることには傷つき不満をため込むくせ、自分の娘に対してはひどく矛盾した行動をとってしまっていたのだ。

娘という一人の個人に対して、自分の従属物のように扱っている(そのように動いてくれたほうが自分にとって都合がいいため)という、いやらしい考えもあるようにも思う。

 

もしかしたら、夫に対して抑え込んでしまっている言葉や気持ちが娘たちに向かっているのだろうか・・・・・・

気持ちを切り替えて、娘たちの言葉と気持ちにもっと向き合っていきたいな、と思った。

 

「俺には関係ないけどね」と言った夫。

私は子供の頃から朝が弱い。そうして、そんな体質は妊娠・出産後も変わっていない。

どんなに早く寝ても、結果は同じ。すっきりと目覚めることができない。理由も不明だ。低血圧ではあるが、それだけが理由なのか。ただの甘えなのか、気持ちの問題なのか解らない。(言い訳ではあるが、一人だけで一つの布団で、朝まで熟睡と言うことが難しいことも大きいのでは??と言う想いも正直あるのだけれど・・・・・・)

 

それゆえ、と言うべきか。朝の急がしい時間は、夫に大いに助けられている。上の娘の朝のトイレから、着替え。食事のサポート。あれやこれやと文句や注文を付ける娘の言動に、時に応え、時に諌め。とてもよく動いてくれている。助けられている。感謝もしている。

 

けれども、朝が弱く、睡眠の質も確保されず(添い寝で寝落ち。一つの布団で二人の娘と三人で寝る。夜泣きで一回は起こされるため)、おまけに空腹。(下の娘の相手をしつつの朝食の準備のため、要領の悪い私は一緒に朝の食卓を囲むことができない)そうして、自分の身支度もままならない忙しない空気の中、上の娘の朝の一連の流れ(トイレ、着替え、朝食、歯磨き)がスムーズに行かないのは、「私が朝早く起きないからだ」と決め付けられるたびに、なんともいえない気分になってしまう。

 

 

「俺には関係ないけどね」と言った夫。

 

ある朝での出来事だ。いつものように、おしゃべりに夢中でだらだらと朝食を食べ、途中で席を立ち遊び始める娘に対し、「幼稚園に遅刻するよ!!」とせきたてる夫と私。その中で、何かのついでに「まぁ、遅刻しても俺には関係ないけどね。○○先生(集団登園の引率の先生)に注意されるのはママだしね」と言われたことがある。

夫にっては、自然な話の流れの上での発言だったようだ。もっと私が早く起きて、機嫌よくてきぱきと朝の準備をしていれば、朝から娘を急かすことなく、私たち親もイライラしなくてすむ。確かに正論なのだ。

そうして娘が集合場所に遅れても注意を受けるのは私だ。間違っても、「もっと旦那さんに協力してもらってください」とは言われない。

けれども、朝が弱いゆえの体のだるさと空腹を抱えていた私には、この他人事めいた夫のセリフにカチンときてしまった。

 

 

夫の言動に対して、イライラしてしまう理由

 

先日こんな記事を目にした。

kazenoya.hatenablog.com

 

赤ちゃんの泣き声にイライラしてしまうのは、赤ちゃん自身が持つ防衛本能のようなものでもあるらしい、という話を思い出した。母親などの周囲の音の名注意をひくために、イライラするようになっている。だからこそ、周囲の大人は赤ちゃんを泣き止ませようとするのだ、という話だ。そうして、泣き止ませる手法を間違うと、虐待につながってしまうという。

 

 

さて、この記事の中で、こんな件があって、大いにうなずいてしまった。

>でも、どのママさんたちもそのイライラをストレートに表現し続けているわけではなくて、ものすご〜くイライラすることを我慢してますよね。そんな緊張状態の時に安全装置を外して引き金を引いちゃうのって、やっぱり夫だったりします(笑)。

 

上の娘に対しては特に、私の感情や体調が原因でイライラしているときに言葉がきつくなってしまったり、態度や返答がぞんざいになってしまったときには、すぐに反省し謝るようにしている。そうして、必ず娘を抱きしめるようにもしている。

不思議なことに、娘に対しては素直に申し訳ないと思えるのだ。

 

けれども、夫が引き金となってのイライラは、なかなか自分の中で反省も消化もできないことが多い。結果ぶすぶすと燻ぶり続け、ぐずぐずと思い悩み続けることになる。

 

仕事をしていないのだから家事・育児は私の仕事だ。頭ではわかっているのだけれども、だからと言って夫が育児に対して無責任でいいはずはないとも思っている自分がいるからだ。

 

いや、夫が育児に対して責任を感じていないというと、語弊があるだろう。

けれども、夫は日中仕事をしている。普段娘たちと接する時間は絶対的に短い。それゆえ、と言うべきか。夫が娘たちの成長や躾、健康面のことで、第三者から責任を問われる機会は極端に少ないこともやはり事実だ。

 

当たり前だが、幼稚園への送り迎えは基本私だ。

病気やケガで病院へ連れて行くのも私だ。

検診で病院に連れて行くのも私だ。

育児支援センターに連れて行くのも私だ。

育児についていろいろと思い悩むのも私だ。

幼稚園の先生や病院の先生、保健士さんや支援センターの職員などから、注意やアドバイスを受けるのも私だ。

そうして、受けた注意やアドバイスに対して大きく責任を感じるのも、また私だ。

 

 

父親には休みがある。

 

私の夫はサラリーマンだ。とはいえ、1年365日1日24時間、寝食を忘れて仕事をしているわけではない。休日があり、出社時間・帰宅時間がある。

片働き家庭において、「仕事をすること=生活費を稼ぐこと=育児」とするならば、帰宅後のくつろぎの時間も休日も、ある意味仕事をする上で最低限必要な(そうして与えられた当然の)権利ととらえることもできる。

夫自身がどこまでオンオフを意識して生活しているかわからない。けれども、休日ごとに当たり前のように一人時間満喫している姿を見ていると、

「あぁ、父親には休みがあっていいなぁ」

と羨ましくもあり妬ましくもある、複雑な思いを抱いてしまう。

 

もっとも母親に休みがないわけではない。ないわけではないが、確実にあるわけでもない。決まった日にち時間にとれるわけでもない。

娘たちが寝ている間も、目の前にある家事を優先するか、つかの間の趣味の時間をとるか、睡眠をとるか・・・・・・そんな葛藤さえも生まれてしまう。

そうして、趣味の時間でさえも、気が付けば育児についてのブログを探し、クックパットで子供向けのレシピを検索している。

 

 

父親と母親の違い

 

父親と母親はやはり違うな、と何かにつけて思い知らされる。

自分が友人にプライベートで誘われるとき、娘が二人いることを知る友人は、当然私の娘ありきで予定を組む。もしくは、私の娘の予定や都合を考慮して、スケジュールを調整してくれる。友人自身に子供がいて、娘たちがいないと場が成り立たない場合もある。そうして、飲み会などは、そもそも誘われなかったりもする。

 

一方夫の場合はどうだろう。妻である私が専業主婦であることも大きいのかもしれないが、夫の友人や上司は、忘年会やBBGなどのイベントを除いては、娘ありきで誘うことをしない。父親である夫が早く家に帰れるように、という配慮をすることもあまりないように思う。

 

実家での待遇も違う。

訪問頻度の違い、訪問人数の違い(私の実家へは基本私一人だが、夫の実家へは必ず私もついていくようにしている)、互いの両親の考え方・性格の違いもあるのだろうけれど。

私が実家でコーヒーを飲んで一息ついていると、私の父親(母親は何も言わない)はかなりの高確率で嫌味を言う。

けれども、夫の実家では、義理母は夫が何時間もソファーで居眠りをしていても、決して何も言わない。(もっとも、私も滞在中は娘たちの相手しかしていないのだけれど)

 

私の父親は、母親である私が極端に楽をすることをあまり良しとしない。

一方、夫の母親は、父親である夫休日どんなに一人時間を満喫し日中どんなに居眠りをしようとも、夫をとがめることはしない。むしろ、日頃疲れているのだから、といたわりの言葉をかける。

 

夫だけではない、私の父親や義理母などの身近な人間の、何気ない言動を見てみるにつけ、「家事育児は社会的に評価されにくい」

「仕事のほうが家事育児より価値がある」という固定観念を再確認させられているような気分になる。

 

もしかしたら、そんな小さな違和感やモヤモヤの積み重ねが、日々のイライラのハードルを下げる手助けをしてしまっているのかもしれない。

つらい時に「具体的に助けてほしいことと、理由」を素直に言えない理由

はてなブックマークに気になるタイトルを見つけた。

anond.hatelabo.jp

 

私にとって、色々考えさせられる投稿だった。そうして、以下のようなコメントを残した。

 

>大袈裟かもだけど、「保護責任者遺棄罪」に似た感覚なのかな?あと、母親自身が「自分で何をして欲しいか言わない」赤ちゃんを相手にしているのに、なんで父親はその苦痛から逃れられるの?て言う疑問もあるのかも?

 

文字数の関係で、大きく内容を端折ってしまったので、改めて自分なりの感想を書いてみたいと思う。

 

 

大変そうにしている私に対して「何してほしい?」と夫に聞かれることに、大いに不満な私

 

「声に出さなければ伝わらない」は正論だ。

けれども、育児で心も体もしんどくていっぱいいっぱいな時、私だったら・・・・・・

「なぜ、苦しんでいる人間が、具体的に何をしてほしいか言葉にしなければいけないのか??」といった疑問が、まず一番の感想だった。

 

極論かもしれないが、例えるなら

"道端に人が倒れていました。けれども、その人は「助けてくれ」とは言いませんでした。だから助けませんでした。"

というシチュエーションでの行動が、「正しい」と評されているのと同じように受け取ってしまったからだ。そうして、私にはその行動がどうしても「正しい」行動とは思えない。それゆえの、大きな疑問なのだと思う。

 

 

日々「何をしてほしいのか具体的に口に出して言わない娘たち」と接していて

 

私は察することが苦手だ。正確には、「相手の求めていることを的確に理解して察し、行動すること」が苦手だ。

けれども、育児は「察すること」の連続だ。少なくとも、私はそう思う。まだしゃべらない下の娘はもちろんのこと、幼稚園に通い自分のしたいことしたくないこと何でも口に出して伝えることができる上の娘に対しても、そう思うことは多々ある。

 

一方で、父親である夫はどうだろう。

接している時間の絶対数が違うのだから当然といえば当然なのだけれど。いざとなったら「自分にはおっぱいがないから」「やっぱりママが一番だよね」「ほら!!ママの顔を見たら泣き止んだ!!」と言って、ポンと娘を私に渡そうとする夫を見ていると、「察する」まえに思考を簡単に停止できてしまう。(夫本人にしてみたら、意図してそうしているわけでは決してないのだろうけれども)

 

特別得意とはいいがたい「察すること」を娘たちと接するうえで求められる毎日。その隣で、夫は「察すること」をいつでも放棄できる。それが許される。

(実際は、キチンと察することができているわけではない。だからこそ、かんしゃくを起こされ、駄々をこねられ、泣きわめかれ・・・・・・ますます育児がしんどくなってしまうのだけれど。)

母親と父親では役割が違うのかもしれない。けれども、同じ二人の娘たちの親だ。夫にも「察すること」を自分と同様に求めることは、「親としての何か」を夫に求めることと同義なように、私には思えてならない。(ひどく抽象的で、分かりにくい表現だけれども)

 

いやらしい表現をしてしまえば、「同じ苦痛を味わってほしい」別の表現を使えば「自分と同じになってほしい(自分が求められていることを、母親としてこういう苦労があるということを、もっと夫に理解してほしい)」そんな気持ちが、心のどこかにあるのだと思う。

 

 

つらい時に「具体的に助けてほしいことと、理由」を言わない理由

 

今日もこんなことがあった。

夫の帰宅は8時過ぎ。娘たちはお風呂も終わり夕食も食べ終え、あとは歯を磨いて寝るだけ。寝る前の、少し浮足立ったようなテンションだった。

私はというと、娘たちとお風呂には入ったものの、自分の食事は食べ損ね、テーブルの上に冷めた料理の皿が手つかずで残ったまま。下の娘が邪魔をして、自分の食事どころではなかったので、娘たちの食事の後の後始末に追われていた。(皿洗い、床掃除などなど)

夫が防水タブレットを見ながらゆっくりと湯船につかっている間、夫の食事の準備をし、娘たちの歯磨きをし寝る準備へ。夫がお風呂から出てきたときには、下の娘はお座りの状態でおっぱいを飲み、上の娘は興奮して私の膝の上に載って私の体に抱き着き、私は不自然な体制を余儀なくされ悲鳴を上げていた。私は、娘たちが眠たいのだな、と「察して」娘たちを寝室へ連れ出した。

けれども、夫は無言でテーブルに座り食事をとり始めた。

 

そんな夫を見ていて、私はこのブックマークをふいに思い出していた。そうして、こう思ったのだ。

「あぁ、私は夫に気にかけてもらえるような、大切な存在ではないのだな」

「私もご飯を食べていないって、見ればわかるのに」

「ごめん、先にご飯もらうね。の一言でもあればなぁ・・・・・・」

けれども、当たり前のように自分だけご飯を食べ、私が耐えられず寝室に向かう姿を見ても、なんの優しい言葉もかけず。結局寝かしつけに失敗し(たったの30分だったけれど、空腹時に横になり寝るに寝られない状況はきつかった)、最終的には隣の部屋の夫に助けを求めに行っのだけれども、食器も洗わずに一人ソファーでくつろぐ夫を目にしてしまったら(ずっと騒いでいたから、寝かしつけに手こずっていたのはわかっていたはずなのに)、どっと疲れが出てしまった。

 

夫が当たり前のようにくつろぐ姿を見ていると、無気力感が襲い、言葉をかける気力がたちまち削げてしまったのだ。そうして、自分は夫に大事にされていない、むしろないがしろにされた、という被害者意識に支配されてしまった。

 

もし、夫が私で、私が娘たちだったら・・・・・・

しんどいといわなかったからと言って、具体的に何をしてほしいといわなかったからと言って、放っておくことはしなかったはずだ。

おかしな例えだと自分でも思う。けれども、いたわってもらえない自分が、とても可哀そうに思えてならなかった。

 

もっとも、夫は夫で、仕事で疲れていたから。自分では手が負えないから(おっぱいがないから)、という理由があるのだろう。

けれども、家にずっといるからと言ってわたしも疲れていない訳ではない。母親だからと言って(おっぱいがあるからと言って)、育児のすべてがすんなりいくわけではない。そんな育児のもろもろが、夫に理解されなかったことに、私はただただ悲しかった。常日ごろに、つらい、しんどいとちゃんと声を上げていたせいか、なおさらそう思ったのだ。

 

 

たまごが先か鶏が先か。

経験がないから、(寝かしつけなどに)苦手意識が生まれるのか。苦手意識があるから、経験が積めないのか。どちらにせよ、夫自身がどこかで我慢や努力をしてその負の連鎖を断ち切らない限り、今日のような光景は繰り返されるのだろうか。

ワンオペ育児について、思うことあれこれ

最近立て続けに、ワンオペ育児についての記事を読む機会があった。

 

one-mam.hatenablog.com

miho1010.hatenadiary.jp

 

上記の記事には、コメントを残させていただいた。

その繰り返しになるのだけれど、この「ワンオペ育児」の問題には、「家事・育児」が父親からも、そうして当事者からの母親からも(意識、無意識関係なく)軽く見られがちなこと。そうして、その「辛さ、しんどさ」の基準がなく曖昧であること、が大きく影響しているのかな、と私は思っている。

 

 

特別「ワンオペ育児の意味とママの現状」の中で触れている、

>ただ、今このワンオペ育児という言葉を用いて問題とされているのは、「共働きの家庭」でのことなんだそう。

と言うフレーズと、この問題が語られるときの「極端に過敏な子供を持つ母親の、地獄の様な育児生活」ばかりが一人歩きのようにクローズアップされがちな点(当然と言えば当然なのだけれど)に、色々考えされられてしまった。

 

 

曖昧な育児のしんどさ

私はとても恵まれた環境にいる。にもかかわらず、核家族であり夫がサラリーマンでもある我が家では、必然と一日の中で「ワンオペ育児」にならざる得ない状況がどうしても起こりうる。

けれども、辛い・しんどいとどんなに思っていても、実生活の中では、なかなか友人や母親に愚痴をこぼしても伝わりづらかったり、伝えること自体がはばかられたりと言ったことが多々ある。

理由はいくつかあるが、大きな理由は二つ。一つは、やはり実家が近くにあり日々頼っていることへの負い目(罪悪感)。そうしてもう一つは、我が娘たちの育児が「楽でもないが、地獄でもない」ことだろう。

 

以前話題になったムーニーのCMのような慌ただしさ、忙しなさを経験していないと「ワンオペ育児はしんどい」 といいにくいような空気感の様なものが、ネットの世界にはあるように、私は思う。

そうして、そのしんどさを感じるか否かは、母親や子供の能力、気質、相性によって見事に違ってくる。それゆえ、その「しんどさ」は第三者には理解されにくい。

だからこそ、「ワンオペ育児」問題には、賛成意見ばかりではなく、賛否両論沸き起こってしまうのではないだろうか。 

 

 

 何をもって「育児」なのか。

常々疑問に思うのだけれど、どこまでが育児なのだろうか??

娘たちが寝ている間は育児ではないのか??

機嫌よく一人遊びをしていたり、テレビを見ている時間は育児ではないのだろうか??自分も一緒に入って、一緒に食べる、入浴の時間は??食事の時間は??

 

おそらく、自分のペースを乱され、自分の思い通りにならないことは、心のどこかで「育児」と私はカウントしているのだと思う。

いつ起きるかわからない昼寝の時間も。

いつ集中力が途切れて私へ手助けを求めたり、文句を言いだすかわからない、一人遊びの時間も。

そうして、寝かしつけをしそのまま一緒の布団で寝ている時間も。

娘たちと同じ空間にいて、かつ母親という役割から解放されない時間は、どんなに自分の手が空いていようとも「自分だけの自由時間」として存分に楽しむことが、私にはどうしてもできない。(もっとも、子供を産んだ時点で、母親という役割は自分が死ぬまで続くのだけれど。)

 

けれども、夫はそうは思っていない。おむつを替えたり、トイレに付き添ったり。食事のサポートをしたり。具体的な何かだけが「育児」だと思っているのでは??と疑問に思わせる言動が多々ある。

このギャップは大きい。

 

 

「家事・育児」と「仕事」どちらが大変か??

比べることなど決してできないのだろうけれど、時折ネットでは話題になるテーマだ。

とはいえ、社会全体として、どこか「家事・育児」が「仕事」よりも軽んじられがちであるように、私は思えてならない。理由は以下のとおりだ。

 

  • 仕事をしていないと「ワンオペ育児」としてカウントされないこと。
  • ワンオペ育児問題がクローズアップされるようになったのが、ここ数年の出来事であること。(母親が家事・育児を一手に担う「ワンオペ育児」は、私達の母親達の時代にもあったはずだ)
  • 多くの母親にとって、「育児」に関しては基本ずぶの素人であること。
  • 家事に関しても、その能力に幅がありすぎて、正しく評価するすることが難しいこと。
  •  例え家事を外注したとしても、発注先である保育士やハウスキーパーの給与というのは決して高くないこと。(職業に貴賤はないとはいえ、ある意味、彼ら・彼女らの給与が低いことが家事・育児に対する社会的な評価につながっている側面があること)

 

「ワンオペ育児」が一部の人間に理解されない背景には、そんな社会の認識があるように思う。

 

私自身、自分の「家事・育児」に自信がないこと、そうして「知識や技術」ではなくまず「実践と経験」だとも思っていることから、「家事・育児」は「できる・できない」の問題ではなく、「やる・やらない」のどちらかだとも思っている。だからこそ、夫が主体的に「家事・育児」をしないのは、「やる気の問題」であると思っている部分もある。

 

それゆえ、夫に「家事・育児」を求めることへのハードルが低くなりがちだ。

もし、私のイメージしそうして実践している「家事・育児」がより専門性の高いものだったら・・・・・・

自分の「家事・育児」誇りを持つことによって、逆に夫に対して積極的に「家事・育児」を求める回数が減るのかもしれない。そうして、夫のする「家事・育児」に対し、もっと感謝することができるようになるのかもしれない。

 

 

蛇足:家の中で「家事・育児」をして思うこと

家の中は誘惑がいっぱいだ。TVにネット。本。甘いもの。暖かいコーヒー。ゆったりくつろげるソファー。いつでも横になれる布団。そうして、家庭育児の特権として、それらの息抜きが身近にあるからこそ、余裕のある育児ができるのだ、と私が自身が思い込んでいる。一方で、私の夫もまた、そう思っているのではないか??と思われる言動をしばし見せる。

 

けれども、なかなか自分のタイミングでそれらを楽しむことは、私にはとても難しい。

テレビをつければ、上の娘から「この番組はつまらない。録画のアニメが見たい!!」と文句を言われ。ネットをのぞこうとすれば、下の娘が騒ぎ出し抱っこをせがみ。本を読もうとすれば、ふざけあう娘たちに破られそうになり・・・・・・

 

テレビなどの虚構の世界の子育て風景を見ていると、私自身が今現在実感している「慌ただしさ、忙しなさ、だらしなさ、切羽詰まった感」のようなぐちゃっとした生々しい感じが、とてもきれい描かれすぎているように思う。(プロの女優・俳優と、出来の良い子役が演じる姿なのだから、当然なのだけれど)

そうして、それが普通の「親子の風景」だと私の頭が思い込んでいるのかもしれない。

 

 

ママ友と話していた時こんなことをつぶやいたら、大きな共感を得たことを思い出した。

「よその子って、すごいしっかりしているように見えるよね」

「たまにさ、人の家をこっそり24時間覗き見したくならない??ふだん、みんなどんな風に過ごしてるかとかさ」

 

普通なんて存在しないのだろう。けれども、娘たちと日々接していると、「平均的な発達具合」という話題はとても身近だ。

だからこそ、「普通はワンオペ育児でも大変には思わない。」という思い込みに縛られてしまうのかもしれない。

 

 

 

個人的には、「ワンオペ育児はしんどい」もっと言えば、「ワンオペ育児じゃなくったって、家事・育児の両立はしんどい」ぐらいの認識が、もっと広まればよいのにな、と思っている。

適度に家事の手を抜くことの難しさ

私にとっての家事

私は家事が好きなほうだと思う。とはいえ、疲れているとき、体調がすぐれないとき、娘たちの機嫌が悪いときの家事はしんどいし、好きではない。もっと欲を言えば、夫がくつろいでいるときの(家事に無関心でいるときの)家事も、はっきりと好きとは言い難いところだ。

 

けれども私にとって、適度に家事の手を抜くことは難しいことだ。

もっとも、私の家事は決して完ぺきではない。部屋の収納は中途半端で雑然としているし、娘たちの洋服が収まった引き出しの中は常にぐちゃぐちゃ。服はあふれ、箪笥の上に積み上げられている。

料理も同じだ。お菓子、パンなど手作りにはこだわらない。めんつゆは市販品を使うようになったし、冷凍の餃子も冷凍庫に常備するようになった。

 

とは言え、私にとっての最低限の家事(主に掃除と洗濯において)の基準は、夫や私の両親のそれよりも高い。それ故、自分で自分の首を絞めているのでは??と思うことは多い。

 

私がしんどさを訴えると、夫は積極的に手を出さない代わりに「家事の手抜き」を推奨しようとする。

けれども、私がどんなに 適度に手を抜こうとしても、その適度の度合いには夫婦間で温度差がある。そのため、夫の優しさのつもりの「適当に手を抜いたら??」が、私にとっての優しさにはならないときがある。

 

 

家事に関してズボラな母の影響

繰り返しになるが、私の母は専業主婦だ。

料理はとても得意で、市販品やレトルト、半調理品をあまり好まない。コストパフォーマンスと健康を考え、なんでも手作りを基本としている。

その一方で、掃除・片付けはとても苦手だ。キッチンの流し台やダイニングテーブルの上は、朝食時のお皿が夕方までそのままであったりといった光景がざらにある。

洗濯は嫌いではないようだが、好きでもない。まめに洗濯機を回すことはしないし、洗濯機の中に脱水の終わった洗濯物が半日以上放置されていても平気だ。洗濯に対するきめ細かさ(色移りや毛玉防止への気配りなど)もあまりない。

 

 

時折、こう言う人がいる。

「毎日掃除や洗濯をしなくたって、人は死なない。食事だって、一日三食ちゃんとしたものをきっちり食べなくたって、病気にはならない」

 

 

けれども私は思う。確かに死ぬことはないかもしれない。けれども、そんな状態を不快に思う人はいるだろうし、それら(毎日の炊事洗濯、そして掃除)を怠ったことで生じる不都合も十分にあるのでは??と。

 

汚い話だが(そうしてとても恥ずかしい話でもあるのだが)、いたみかけた料理の残ったお皿が、日常的にテーブルの上にそのまま放置されていたり。

床に落ちた食べ物(パンくずやご飯粒、柑橘類の種など)がそのまま放置されていたり。

ゴキブリとの遭遇率が高かったり。

取り込まれた洗濯物が、ほこりをかぶりかけた状態でソファーに常時放置されていたり。

靴下の片割れが常に行方不明だったり。

洗濯済みのお気に入りの洋服に染みが残ったままだったり。 

 

子供時代もそうだ。学校への提出物のプリントに醤油の輪染みがついていたり。

給食当番のエプロンのアイロンがけがあまく、微妙にしわが残っていたり。 

 

そういったことに、私はとても敏感だった。学校でも恥ずかしい思いをたくさんした。そういった理由で、友人を家に招き入れることに抵抗もあった。

 

私は、最大限家事の手を抜いたことによって生じる不都合をとてもよく知っているのだ。だからこそ、適度に家事の手を抜くことがとても難しいことのように思えてならない。そうして、怖いなとも思ってしまう。日々の積み重ねが、ちょっとした気の緩みがきっかけで一気にガラガラと崩れていくような、そんなイメージだ。

 

母の良いところ(料理)はお手本として。

 母の悪いところ(掃除・洗濯)は反面教師として。

それが私の家事基準の一つになっているように思う。

 

 

お金という解決方法

もっとも、一番手っ取り早い解決策は最新家電の購入と、外注だろう。けれども、私が遣り繰りできるお金が、夫の裁量で決まっている我が家の家計システムでは、簡単な方法ではない。

自分の独身時代の貯金という方法もなきにしもあらずだが、無職の自分にはとてもハードルが高い選択肢だ。

また、自分の専業主婦という立場も大きい。母親の影響もあり、「もったいない」という意識がどうしても先行してしまう。 

 

 

夫に気付いてほしいと思うこと

もう一つの方法としては、やはり一番身近にいる夫に手伝ってもらうことだろう。

夫は夫なりに、家事を積極的にしている。けれども、当事者意識が薄いな、と思うことが多々ある。

それは、休日など、私がするだろうことを見越して行動をしているからだ。というのも、夫は趣味の一人時間のために、朝と夕方家を空けることが多々ある。当然、朝の一通りの家事(ゴミ捨て、食器の片づけ、朝食の準備等)や夕食作りは物理的にできない。その時間家を空けるということは、自分はする必要がないと思っているからだろう。その発想自体に、私は強い違和感を抱いてしまう。いくら妻が専業主婦とはいえ、小さい子供が二人もいる、そうして自分は休日なのだ。妻と自分は対等な関係だと思っているのならば、妻に仕事を押し付けて自分だけ遊びに出かけるのは、アンフェアではないのか、と。

 

 

あえて家事をやらないという選択

家事に対してある程度の完成度を求めてしまう私にとって、夫がやらないかもしれないという不安を抱えながら、あえて家事の手を抜く、やらないという選択肢をとることにも少し抵抗がある。

もし、夫が気が付いてやってくれなかったら??やるのは自分だ。やらずに、不快な思いをするのも自分だ。不便な思いをするのも自分だ。

言えばやってくれるのかもしれない。けれども、言わずにやるというその気持ち、心意気を、私は夫に求めているのだと思う。だからこそ、ストレートに言葉に出してお願いをすることに、私は抵抗を感じてしまう。

 

 

いつか友人に「我慢して自分でやらずにさ、旦那が出かける前とか、帰ってきた時とかに、ちゃんと口で言えばいいんだよ。掃除してから出かけて、とか。帰ったら夕食作ってよとか。それかさ、何にもやらない。旦那が帰ってきても何もしないの」とアドバイスをされたことがある。

けれども、もし私が夫の立場だったらすごく嫌だろうな、と想像してしまい、なかなかこのアドバイスも実行することができない。

 

 

もし私が、ネットのどこかでこんな愚痴をこぼしたらたちどころに「デモデモダッテ」と揶揄されるのだろう。自分が欲しいのは、結局夫が変わってくれる魔法の言葉なのだ。けれども、そんな魔法はこの世には存在しない。私が変わらなければダメなのだ。頭ではわかっている。けれども、私の悪い考え方の癖が邪魔をする。

 

このまま我慢をするか。

自分の意思を相手に感情的にならずに伝える努力をするか。

 

中途半端に我慢をため込んで、小出しに不満をこぼすのは、非常にもったいないなとも思う。いやらしい表現だが、相手に貸しを作っている状態が、不満をこぼすことでその貸しがチャラになってしまうような気がするからだ。

笑顔で我慢を続けても、その貸しが帰ってくる保証もないのだけれど。どうせ我慢をするのならば、笑顔で我慢をし続けることに、私は多少の美徳意識を持っている。

もしかしたら、そんな偏った考え方にこだわっていることが、そもそもの諸悪の根源なのかもしれない。