日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。

つらい時に「具体的に助けてほしいことと、理由」を素直に言えない理由

はてなブックマークに気になるタイトルを見つけた。

anond.hatelabo.jp

 

私にとって、色々考えさせられる投稿だった。そうして、以下のようなコメントを残した。

 

>大袈裟かもだけど、「保護責任者遺棄罪」に似た感覚なのかな?あと、母親自身が「自分で何をして欲しいか言わない」赤ちゃんを相手にしているのに、なんで父親はその苦痛から逃れられるの?て言う疑問もあるのかも?

 

文字数の関係で、大きく内容を端折ってしまったので、改めて自分なりの感想を書いてみたいと思う。

 

 

大変そうにしている私に対して「何してほしい?」と夫に聞かれることに、大いに不満な私

 

「声に出さなければ伝わらない」は正論だ。

けれども、育児で心も体もしんどくていっぱいいっぱいな時、私だったら・・・・・・

「なぜ、苦しんでいる人間が、具体的に何をしてほしいか言葉にしなければいけないのか??」といった疑問が、まず一番の感想だった。

 

極論かもしれないが、例えるなら

"道端に人が倒れていました。けれども、その人は「助けてくれ」とは言いませんでした。だから助けませんでした。"

というシチュエーションでの行動が、「正しい」と評されているのと同じように受け取ってしまったからだ。そうして、私にはその行動がどうしても「正しい」行動とは思えない。それゆえの、大きな疑問なのだと思う。

 

 

日々「何をしてほしいのか具体的に口に出して言わない娘たち」と接していて

 

私は察することが苦手だ。正確には、「相手の求めていることを的確に理解して察し、行動すること」が苦手だ。

けれども、育児は「察すること」の連続だ。少なくとも、私はそう思う。まだしゃべらない下の娘はもちろんのこと、幼稚園に通い自分のしたいことしたくないこと何でも口に出して伝えることができる上の娘に対しても、そう思うことは多々ある。

 

一方で、父親である夫はどうだろう。

接している時間の絶対数が違うのだから当然といえば当然なのだけれど。いざとなったら「自分にはおっぱいがないから」「やっぱりママが一番だよね」「ほら!!ママの顔を見たら泣き止んだ!!」と言って、ポンと娘を私に渡そうとする夫を見ていると、「察する」まえに思考を簡単に停止できてしまう。(夫本人にしてみたら、意図してそうしているわけでは決してないのだろうけれども)

 

特別得意とはいいがたい「察すること」を娘たちと接するうえで求められる毎日。その隣で、夫は「察すること」をいつでも放棄できる。それが許される。

(実際は、キチンと察することができているわけではない。だからこそ、かんしゃくを起こされ、駄々をこねられ、泣きわめかれ・・・・・・ますます育児がしんどくなってしまうのだけれど。)

母親と父親では役割が違うのかもしれない。けれども、同じ二人の娘たちの親だ。夫にも「察すること」を自分と同様に求めることは、「親としての何か」を夫に求めることと同義なように、私には思えてならない。(ひどく抽象的で、分かりにくい表現だけれども)

 

いやらしい表現をしてしまえば、「同じ苦痛を味わってほしい」別の表現を使えば「自分と同じになってほしい(自分が求められていることを、母親としてこういう苦労があるということを、もっと夫に理解してほしい)」そんな気持ちが、心のどこかにあるのだと思う。

 

 

つらい時に「具体的に助けてほしいことと、理由」を言わない理由

 

今日もこんなことがあった。

夫の帰宅は8時過ぎ。娘たちはお風呂も終わり夕食も食べ終え、あとは歯を磨いて寝るだけ。寝る前の、少し浮足立ったようなテンションだった。

私はというと、娘たちとお風呂には入ったものの、自分の食事は食べ損ね、テーブルの上に冷めた料理の皿が手つかずで残ったまま。下の娘が邪魔をして、自分の食事どころではなかったので、娘たちの食事の後の後始末に追われていた。(皿洗い、床掃除などなど)

夫が防水タブレットを見ながらゆっくりと湯船につかっている間、夫の食事の準備をし、娘たちの歯磨きをし寝る準備へ。夫がお風呂から出てきたときには、下の娘はお座りの状態でおっぱいを飲み、上の娘は興奮して私の膝の上に載って私の体に抱き着き、私は不自然な体制を余儀なくされ悲鳴を上げていた。私は、娘たちが眠たいのだな、と「察して」娘たちを寝室へ連れ出した。

けれども、夫は無言でテーブルに座り食事をとり始めた。

 

そんな夫を見ていて、私はこのブックマークをふいに思い出していた。そうして、こう思ったのだ。

「あぁ、私は夫に気にかけてもらえるような、大切な存在ではないのだな」

「私もご飯を食べていないって、見ればわかるのに」

「ごめん、先にご飯もらうね。の一言でもあればなぁ・・・・・・」

けれども、当たり前のように自分だけご飯を食べ、私が耐えられず寝室に向かう姿を見ても、なんの優しい言葉もかけず。結局寝かしつけに失敗し(たったの30分だったけれど、空腹時に横になり寝るに寝られない状況はきつかった)、最終的には隣の部屋の夫に助けを求めに行っのだけれども、食器も洗わずに一人ソファーでくつろぐ夫を目にしてしまったら(ずっと騒いでいたから、寝かしつけに手こずっていたのはわかっていたはずなのに)、どっと疲れが出てしまった。

 

夫が当たり前のようにくつろぐ姿を見ていると、無気力感が襲い、言葉をかける気力がたちまち削げてしまったのだ。そうして、自分は夫に大事にされていない、むしろないがしろにされた、という被害者意識に支配されてしまった。

 

もし、夫が私で、私が娘たちだったら・・・・・・

しんどいといわなかったからと言って、具体的に何をしてほしいといわなかったからと言って、放っておくことはしなかったはずだ。

おかしな例えだと自分でも思う。けれども、いたわってもらえない自分が、とても可哀そうに思えてならなかった。

 

もっとも、夫は夫で、仕事で疲れていたから。自分では手が負えないから(おっぱいがないから)、という理由があるのだろう。

けれども、家にずっといるからと言ってわたしも疲れていない訳ではない。母親だからと言って(おっぱいがあるからと言って)、育児のすべてがすんなりいくわけではない。そんな育児のもろもろが、夫に理解されなかったことに、私はただただ悲しかった。常日ごろに、つらい、しんどいとちゃんと声を上げていたせいか、なおさらそう思ったのだ。

 

 

たまごが先か鶏が先か。

経験がないから、(寝かしつけなどに)苦手意識が生まれるのか。苦手意識があるから、経験が積めないのか。どちらにせよ、夫自身がどこかで我慢や努力をしてその負の連鎖を断ち切らない限り、今日のような光景は繰り返されるのだろうか。

ワンオペ育児について、思うことあれこれ

最近立て続けに、ワンオペ育児についての記事を読む機会があった。

 

one-mam.hatenablog.com

miho1010.hatenadiary.jp

 

上記の記事には、コメントを残させていただいた。

その繰り返しになるのだけれど、この「ワンオペ育児」の問題には、「家事・育児」が父親からも、そうして当事者からの母親からも(意識、無意識関係なく)軽く見られがちなこと。そうして、その「辛さ、しんどさ」の基準がなく曖昧であること、が大きく影響しているのかな、と私は思っている。

 

 

特別「ワンオペ育児の意味とママの現状」の中で触れている、

>ただ、今このワンオペ育児という言葉を用いて問題とされているのは、「共働きの家庭」でのことなんだそう。

と言うフレーズと、この問題が語られるときの「極端に過敏な子供を持つ母親の、地獄の様な育児生活」ばかりが一人歩きのようにクローズアップされがちな点(当然と言えば当然なのだけれど)に、色々考えされられてしまった。

 

 

曖昧な育児のしんどさ

私はとても恵まれた環境にいる。にもかかわらず、核家族であり夫がサラリーマンでもある我が家では、必然と一日の中で「ワンオペ育児」にならざる得ない状況がどうしても起こりうる。

けれども、辛い・しんどいとどんなに思っていても、実生活の中では、なかなか友人や母親に愚痴をこぼしても伝わりづらかったり、伝えること自体がはばかられたりと言ったことが多々ある。

理由はいくつかあるが、大きな理由は二つ。一つは、やはり実家が近くにあり日々頼っていることへの負い目(罪悪感)。そうしてもう一つは、我が娘たちの育児が「楽でもないが、地獄でもない」ことだろう。

 

以前話題になったムーニーのCMのような慌ただしさ、忙しなさを経験していないと「ワンオペ育児はしんどい」 といいにくいような空気感の様なものが、ネットの世界にはあるように、私は思う。

そうして、そのしんどさを感じるか否かは、母親や子供の能力、気質、相性によって見事に違ってくる。それゆえ、その「しんどさ」は第三者には理解されにくい。

だからこそ、「ワンオペ育児」問題には、賛成意見ばかりではなく、賛否両論沸き起こってしまうのではないだろうか。 

 

 

 何をもって「育児」なのか。

常々疑問に思うのだけれど、どこまでが育児なのだろうか??

娘たちが寝ている間は育児ではないのか??

機嫌よく一人遊びをしていたり、テレビを見ている時間は育児ではないのだろうか??自分も一緒に入って、一緒に食べる、入浴の時間は??食事の時間は??

 

おそらく、自分のペースを乱され、自分の思い通りにならないことは、心のどこかで「育児」と私はカウントしているのだと思う。

いつ起きるかわからない昼寝の時間も。

いつ集中力が途切れて私へ手助けを求めたり、文句を言いだすかわからない、一人遊びの時間も。

そうして、寝かしつけをしそのまま一緒の布団で寝ている時間も。

娘たちと同じ空間にいて、かつ母親という役割から解放されない時間は、どんなに自分の手が空いていようとも「自分だけの自由時間」として存分に楽しむことが、私にはどうしてもできない。(もっとも、子供を産んだ時点で、母親という役割は自分が死ぬまで続くのだけれど。)

 

けれども、夫はそうは思っていない。おむつを替えたり、トイレに付き添ったり。食事のサポートをしたり。具体的な何かだけが「育児」だと思っているのでは??と疑問に思わせる言動が多々ある。

このギャップは大きい。

 

 

「家事・育児」と「仕事」どちらが大変か??

比べることなど決してできないのだろうけれど、時折ネットでは話題になるテーマだ。

とはいえ、社会全体として、どこか「家事・育児」が「仕事」よりも軽んじられがちであるように、私は思えてならない。理由は以下のとおりだ。

 

  • 仕事をしていないと「ワンオペ育児」としてカウントされないこと。
  • ワンオペ育児問題がクローズアップされるようになったのが、ここ数年の出来事であること。(母親が家事・育児を一手に担う「ワンオペ育児」は、私達の母親達の時代にもあったはずだ)
  • 多くの母親にとって、「育児」に関しては基本ずぶの素人であること。
  • 家事に関しても、その能力に幅がありすぎて、正しく評価するすることが難しいこと。
  •  例え家事を外注したとしても、発注先である保育士やハウスキーパーの給与というのは決して高くないこと。(職業に貴賤はないとはいえ、ある意味、彼ら・彼女らの給与が低いことが家事・育児に対する社会的な評価につながっている側面があること)

 

「ワンオペ育児」が一部の人間に理解されない背景には、そんな社会の認識があるように思う。

 

私自身、自分の「家事・育児」に自信がないこと、そうして「知識や技術」ではなくまず「実践と経験」だとも思っていることから、「家事・育児」は「できる・できない」の問題ではなく、「やる・やらない」のどちらかだとも思っている。だからこそ、夫が主体的に「家事・育児」をしないのは、「やる気の問題」であると思っている部分もある。

 

それゆえ、夫に「家事・育児」を求めることへのハードルが低くなりがちだ。

もし、私のイメージしそうして実践している「家事・育児」がより専門性の高いものだったら・・・・・・

自分の「家事・育児」誇りを持つことによって、逆に夫に対して積極的に「家事・育児」を求める回数が減るのかもしれない。そうして、夫のする「家事・育児」に対し、もっと感謝することができるようになるのかもしれない。

 

 

蛇足:家の中で「家事・育児」をして思うこと

家の中は誘惑がいっぱいだ。TVにネット。本。甘いもの。暖かいコーヒー。ゆったりくつろげるソファー。いつでも横になれる布団。そうして、家庭育児の特権として、それらの息抜きが身近にあるからこそ、余裕のある育児ができるのだ、と私が自身が思い込んでいる。一方で、私の夫もまた、そう思っているのではないか??と思われる言動をしばし見せる。

 

けれども、なかなか自分のタイミングでそれらを楽しむことは、私にはとても難しい。

テレビをつければ、上の娘から「この番組はつまらない。録画のアニメが見たい!!」と文句を言われ。ネットをのぞこうとすれば、下の娘が騒ぎ出し抱っこをせがみ。本を読もうとすれば、ふざけあう娘たちに破られそうになり・・・・・・

 

テレビなどの虚構の世界の子育て風景を見ていると、私自身が今現在実感している「慌ただしさ、忙しなさ、だらしなさ、切羽詰まった感」のようなぐちゃっとした生々しい感じが、とてもきれい描かれすぎているように思う。(プロの女優・俳優と、出来の良い子役が演じる姿なのだから、当然なのだけれど)

そうして、それが普通の「親子の風景」だと私の頭が思い込んでいるのかもしれない。

 

 

ママ友と話していた時こんなことをつぶやいたら、大きな共感を得たことを思い出した。

「よその子って、すごいしっかりしているように見えるよね」

「たまにさ、人の家をこっそり24時間覗き見したくならない??ふだん、みんなどんな風に過ごしてるかとかさ」

 

普通なんて存在しないのだろう。けれども、娘たちと日々接していると、「平均的な発達具合」という話題はとても身近だ。

だからこそ、「普通はワンオペ育児でも大変には思わない。」という思い込みに縛られてしまうのかもしれない。

 

 

 

個人的には、「ワンオペ育児はしんどい」もっと言えば、「ワンオペ育児じゃなくったって、家事・育児の両立はしんどい」ぐらいの認識が、もっと広まればよいのにな、と思っている。

適度に家事の手を抜くことの難しさ

私にとっての家事

私は家事が好きなほうだと思う。とはいえ、疲れているとき、体調がすぐれないとき、娘たちの機嫌が悪いときの家事はしんどいし、好きではない。もっと欲を言えば、夫がくつろいでいるときの(家事に無関心でいるときの)家事も、はっきりと好きとは言い難いところだ。

 

けれども私にとって、適度に家事の手を抜くことは難しいことだ。

もっとも、私の家事は決して完ぺきではない。部屋の収納は中途半端で雑然としているし、娘たちの洋服が収まった引き出しの中は常にぐちゃぐちゃ。服はあふれ、箪笥の上に積み上げられている。

料理も同じだ。お菓子、パンなど手作りにはこだわらない。めんつゆは市販品を使うようになったし、冷凍の餃子も冷凍庫に常備するようになった。

 

とは言え、私にとっての最低限の家事(主に掃除と洗濯において)の基準は、夫や私の両親のそれよりも高い。それ故、自分で自分の首を絞めているのでは??と思うことは多い。

 

私がしんどさを訴えると、夫は積極的に手を出さない代わりに「家事の手抜き」を推奨しようとする。

けれども、私がどんなに 適度に手を抜こうとしても、その適度の度合いには夫婦間で温度差がある。そのため、夫の優しさのつもりの「適当に手を抜いたら??」が、私にとっての優しさにはならないときがある。

 

 

家事に関してズボラな母の影響

繰り返しになるが、私の母は専業主婦だ。

料理はとても得意で、市販品やレトルト、半調理品をあまり好まない。コストパフォーマンスと健康を考え、なんでも手作りを基本としている。

その一方で、掃除・片付けはとても苦手だ。キッチンの流し台やダイニングテーブルの上は、朝食時のお皿が夕方までそのままであったりといった光景がざらにある。

洗濯は嫌いではないようだが、好きでもない。まめに洗濯機を回すことはしないし、洗濯機の中に脱水の終わった洗濯物が半日以上放置されていても平気だ。洗濯に対するきめ細かさ(色移りや毛玉防止への気配りなど)もあまりない。

 

 

時折、こう言う人がいる。

「毎日掃除や洗濯をしなくたって、人は死なない。食事だって、一日三食ちゃんとしたものをきっちり食べなくたって、病気にはならない」

 

 

けれども私は思う。確かに死ぬことはないかもしれない。けれども、そんな状態を不快に思う人はいるだろうし、それら(毎日の炊事洗濯、そして掃除)を怠ったことで生じる不都合も十分にあるのでは??と。

 

汚い話だが(そうしてとても恥ずかしい話でもあるのだが)、いたみかけた料理の残ったお皿が、日常的にテーブルの上にそのまま放置されていたり。

床に落ちた食べ物(パンくずやご飯粒、柑橘類の種など)がそのまま放置されていたり。

ゴキブリとの遭遇率が高かったり。

取り込まれた洗濯物が、ほこりをかぶりかけた状態でソファーに常時放置されていたり。

靴下の片割れが常に行方不明だったり。

洗濯済みのお気に入りの洋服に染みが残ったままだったり。 

 

子供時代もそうだ。学校への提出物のプリントに醤油の輪染みがついていたり。

給食当番のエプロンのアイロンがけがあまく、微妙にしわが残っていたり。 

 

そういったことに、私はとても敏感だった。学校でも恥ずかしい思いをたくさんした。そういった理由で、友人を家に招き入れることに抵抗もあった。

 

私は、最大限家事の手を抜いたことによって生じる不都合をとてもよく知っているのだ。だからこそ、適度に家事の手を抜くことがとても難しいことのように思えてならない。そうして、怖いなとも思ってしまう。日々の積み重ねが、ちょっとした気の緩みがきっかけで一気にガラガラと崩れていくような、そんなイメージだ。

 

母の良いところ(料理)はお手本として。

 母の悪いところ(掃除・洗濯)は反面教師として。

それが私の家事基準の一つになっているように思う。

 

 

お金という解決方法

もっとも、一番手っ取り早い解決策は最新家電の購入と、外注だろう。けれども、私が遣り繰りできるお金が、夫の裁量で決まっている我が家の家計システムでは、簡単な方法ではない。

自分の独身時代の貯金という方法もなきにしもあらずだが、無職の自分にはとてもハードルが高い選択肢だ。

また、自分の専業主婦という立場も大きい。母親の影響もあり、「もったいない」という意識がどうしても先行してしまう。 

 

 

夫に気付いてほしいと思うこと

もう一つの方法としては、やはり一番身近にいる夫に手伝ってもらうことだろう。

夫は夫なりに、家事を積極的にしている。けれども、当事者意識が薄いな、と思うことが多々ある。

それは、休日など、私がするだろうことを見越して行動をしているからだ。というのも、夫は趣味の一人時間のために、朝と夕方家を空けることが多々ある。当然、朝の一通りの家事(ゴミ捨て、食器の片づけ、朝食の準備等)や夕食作りは物理的にできない。その時間家を空けるということは、自分はする必要がないと思っているからだろう。その発想自体に、私は強い違和感を抱いてしまう。いくら妻が専業主婦とはいえ、小さい子供が二人もいる、そうして自分は休日なのだ。妻と自分は対等な関係だと思っているのならば、妻に仕事を押し付けて自分だけ遊びに出かけるのは、アンフェアではないのか、と。

 

 

あえて家事をやらないという選択

家事に対してある程度の完成度を求めてしまう私にとって、夫がやらないかもしれないという不安を抱えながら、あえて家事の手を抜く、やらないという選択肢をとることにも少し抵抗がある。

もし、夫が気が付いてやってくれなかったら??やるのは自分だ。やらずに、不快な思いをするのも自分だ。不便な思いをするのも自分だ。

言えばやってくれるのかもしれない。けれども、言わずにやるというその気持ち、心意気を、私は夫に求めているのだと思う。だからこそ、ストレートに言葉に出してお願いをすることに、私は抵抗を感じてしまう。

 

 

いつか友人に「我慢して自分でやらずにさ、旦那が出かける前とか、帰ってきた時とかに、ちゃんと口で言えばいいんだよ。掃除してから出かけて、とか。帰ったら夕食作ってよとか。それかさ、何にもやらない。旦那が帰ってきても何もしないの」とアドバイスをされたことがある。

けれども、もし私が夫の立場だったらすごく嫌だろうな、と想像してしまい、なかなかこのアドバイスも実行することができない。

 

 

もし私が、ネットのどこかでこんな愚痴をこぼしたらたちどころに「デモデモダッテ」と揶揄されるのだろう。自分が欲しいのは、結局夫が変わってくれる魔法の言葉なのだ。けれども、そんな魔法はこの世には存在しない。私が変わらなければダメなのだ。頭ではわかっている。けれども、私の悪い考え方の癖が邪魔をする。

 

このまま我慢をするか。

自分の意思を相手に感情的にならずに伝える努力をするか。

 

中途半端に我慢をため込んで、小出しに不満をこぼすのは、非常にもったいないなとも思う。いやらしい表現だが、相手に貸しを作っている状態が、不満をこぼすことでその貸しがチャラになってしまうような気がするからだ。

笑顔で我慢を続けても、その貸しが帰ってくる保証もないのだけれど。どうせ我慢をするのならば、笑顔で我慢をし続けることに、私は多少の美徳意識を持っている。

もしかしたら、そんな偏った考え方にこだわっていることが、そもそもの諸悪の根源なのかもしれない。

食べたいものを作るのか、食べてもらえるものを作るのか

自分の食べたいものを作る母

私の母親は料理が得意だ。手際もよく、一時間も使わずてきぱきと3~4品ほど作る。味も保証されているし、持ち合わせている料理のレパートリーも豊富だ。

けれども一方で、子供が好むメニューの多様や、子供の好き嫌いに合わせて調理方法や盛り付けを工夫するなどの努力は好まなかったように思う。もっと言えば、同居している父方の祖母に対してさえ(食のこだわりが強い人で、年齢も関係しているのかもしれないが、生もののすし、ハムなどの加工肉、練り製品全般を受け付けない)、特別な配慮(祖母にだけ別メニューを作るなどの)はしていなかった。祖母の食べられそうなメニューももちろんそろえつつ、食べられない素材は避けて食べればよいというスタンスだった。

 

後に母から聞いたのだが、母の料理の基本姿勢は「自分が食べたいものを作る」というものだったようだ。思い出してみると、父も時折母の料理に(味付けではなく、メニューそのものに)小言を言うことがあった。けれども、母は専業主婦ではあったものの、もともとの性格が幸いして??か、そんな父のストレートな言動に対しても特別気に病むことはなかった。「だったら食べなくていいよ!!」と言ってのけることもあったぐらいだ。

そのおかげか、母は自分の料理が丸々手を付けられずに残されてることに対して、特別心を動かされることはなかったように思う。

もっとも、私たち子どもが小さかった頃はそれなりに心を配っていたのかもしれない。けれども、表現は悪いが「子供に媚びるような」気配りはしていなかったように思う。

 

 

食にこだわりがないと主張する夫

以前こんな記事を書いた。

ponnsuke.hatenablog.comb

夫は食にこだわりがない。けれども、食材や味付けには好き嫌いがある。矛盾しているように私は思えるのだが、夫自身はそうは思っていないようだ。好き嫌いはあるものの、よっぽどひどい味付けでない限りは料理に全く手をつけなかったり、一口二口箸をつけただけで残すといったことはまずしない。

 

 

私は料理自体は嫌いではない。いやむしろ好きなほうだと思う。けれども、自分のペースで好きなものを、思いつくままに作れる状況などの様々な前提条件が揃ったうえでの”好き”であって、家族一人一人の好みや健康管理、お財布事情や時間の縛りなどの制限があっての料理にたいして、単純に好きと言えるのかろうか??と問われると・・・・・・微妙なところだろう。(もっとも、そんな好き気ままに料理を楽しむことができる子育て中の母親など、まずいないのだろうけれども)

 

 

私は、母の料理スタンスを基本としつつも、割り切って好き勝手に料理をすることに違和感を覚えてしまう。

だからこそ、自分の都合や好みを優先して、苦手だろうなと想像しながらも、残されることを想定しつつチャレンジすることもあっても、常に罪悪感がついてまわる。自分の食の好み、冷蔵庫に残った食材の組み合わせ、調理工程の簡単さ・・・・・・理由はどうであれ、相手が好んで食べないだろうな、と容易に想像できる料理を、私は頻繁に食卓に登場させることができない。

それ故、「自分が食べたいものを作るのか、相手に食べてもらえるものを作るのか・・・・・・」どちらに転んでも、私はどうにもすっきりしない。

 

 

食育としての毎日の食事~”娘たちに食べてもらえるものを作るのか、食べてもらいたいものを作るのか・・・・・・”

娘たちに料理を作る時、どういった姿勢で献立を考えるのが正しいのだろうか??

”娘たちに食べてもらえるものを作るのか、食べてもらいたいものを作るのか・・・・・・”

 

もちろん、正しい答えなどないのだろう。けれども、好ましい答えというものは、育児書やネットなどのたくさんの情報の中から多数決を取れば、おのずと出てくるはずだ。

 

栄養バランスが整った”食べてもらいたいもの”を作って(もっと言えば、そんな料理を娘自ら食べたい!!と積極的に思ってもらえること)、そうしてそれを完食してもらうこと。

 

これが、私にとっての一つの理想であり正解だ。けれども、現実はそう簡単にはいかない。

努力と工夫で「食べてもらえるもの」を地道に増やしていくことが一番の正攻法なのだと頭ではわかはいる。いるけれども、現実はそんなうまい具合に事は運んではいかない。

 

 

娘たちの食事への心のハードルの下げ方

もっともらしいことを書いてはみたものの、上の娘の偏食や食べムラなどにずっと悩まされ続けいる私にとって、上の娘との食事の時間は、正直に言うと単純に楽しいだけの時間ではない。幸い、下の娘は何でも食べてくれているのでとても助かってはいるのだけれども。

 

身近にいる夫に食の関心が薄いこと。娘にとても甘いこと。頼りにしている母親の楽観的な性格(対娘ではなく、対孫であるという甘さも手伝って)などなど。理由は様々だが、私だけが日々一人で空回りしている状態だ。

 

 

もっと言ってしまえば、「娘の正しくない食生活が心配で仕方がない」という素直な気持ちだけではなく、「何かあった時に(生活習慣病や、肥満などの極端な体形変化)、一番に責められ責任を追及されるのは自分なのだから」という、非常に自己中心的でいやらしい考え方も、正直大きいように思う。

上の娘の朝食の介助はもっぱら夫の担当だ。そこで夫は、娘の好きなメニューしか出さない。(基本料理はしないので、トーストやシリアルなどが多く、野菜を積極的に食させる習慣がない。おかずも何種類か作りおいているものの、娘の好きそうな食材を選んでお皿に盛りつけているだけだ)

 

時間に追われている夫は、娘が「栄養の有無にかかわらずおなかの足しになる何か」を、その場その場で食べれば良しと考えているきらいがある。けれども私は、「栄養のある何かを」コンスタントに食べてもらいたいと思っている・・・・・・

 

けれども、きっと娘の心や体に何かが起こったら・・・・・・医師や保健師から注意と指導を受けるのは夫ではなく私だろう。

 

だからこそ、まわりからの「まいっか」や「食べてくれればいいんじゃない」という耳障りの良い言葉につど流されながらも、日々悶々としてしまう。

 

もしかしたら、夫や母親のように、もっと割り切った考え方が無意識にできるならば、精神衛生上私にとっても娘たちにとってもよいのかもしれない。けれども、頭ではわかっていても、なかなかそれを実行することが私にはできない。 

役割分担として、家事・育児と仕事と分け合うこと

何度も書いているが、私は専業主婦である。

だからこそ、家事育児は私の仕事だと思っている。

 

けれどもその一方で、夫が家にいる時間(夫の出社前と帰宅後、そうして休日)は、もっと主体的に家事育児をしてほしいと思っている自分がいる。

もっとも、夫なりには家事・育児を積極的にやっているつもりなのだろう。けれども、家の中で自分が主体的に中・長期的な目線を持って動いていると、夫のその場限りの家事・育児に対して、「もっとこうしてほしい」という欲求がむずむずと頭をもたげてしまう。そうして、そんな気持ちを抑えることがどうしてもできなくなってしまう。

 

 

夫の休日における家事と育児

これも繰り返しになるが、夫は自分の仕事が休みの日には、ほぼ毎回最低でも約半日の自分だけの一人時間を持つことを当然の権利だと思っている。一方の私は、休日にワンオペ育児を強いられることに、違和感と苛立ちを感じている。

 

私にとっての休日のワンオペ育児は、「サービス残業」つまり本来だったらする必要のないワンオペ育児という「しんどさ」を時に味合わなければいけないという、少しの不安を常にはらんでいる。もちろん娘たちと一緒に過ごす時間はとても楽しい。けれども、純粋に楽しいだけかと問われると・・・・・・。

 

一方で、夫にとっての休日はどうだろうか。おそらく彼にとっての家族サービス(家事や育児をしている)の時間もまた、純粋に楽しいだけの時間ではないように、私には映ってしまう。(隙をついては、一人で外出したがるなどの夫の何気ない小さな言動の一つ一つが、私にそう思わせる)

 

このお互いの感覚のズレが、日々のイライラを生んでいるのだろう。

私は夫に「主体的な家事と育児」を求め、夫は夫で私に対して平日と変わらぬ感覚で「主体的な家事と育児」を求めている・・・・・・

もっとも、夫としてはそのような意識は毛頭ないのかもしれない。

けれども、一人時間を意識的に、そうして休日のたびに確保し、ほんのちょっとした隙間時間にどこででも居眠りをする。そうして、家事と育児を無意識のうちにえり好みをしている。

そんな夫の姿を見ていると、「自分は動かない、動けない、動けないことを仕方のないことだと許容している」=「相手=私に対して主体的に家事と育児をすることを求めている」と私はどうしても受け止めてしまいたくなる。

もっとも、この考え方の癖は直すべき悪癖のひとつなのだろう。けれども「この考え方の癖は、私だけの問題なのだろうか??」と言う疑問が常に頭の中にあるせいか(夫が主体的に家事と育児をしていない事は理由はどうであれ事実であるため)、なかなか素直に自分の気持ちを切り替えることが出来ない。

 

 

役割分担として、家事・育児と仕事を分け合うということ

 

ケースバイケースなのだろうけれど、家事・育児と仕事の分担の仕方について、一方が仕事をしていない場合、大まかに以下の三つのパターンに分けられるように思う。

 

A,家事・育児と仕事を、完全に分け合う。仕事を担当している人間は、自分が休日であっても家にいても、決して家事・育児はしない。

 

B,基本方針としては、家事・育児はそれぞれで分け合う。ただし、仕事を担当している人間は、自分が休日であっても、家事・育児を主体的に行う。

 

C,B同様基本方針としては、家事・育児はそれぞれで分け合う。ただし、仕事を担当している人間は、自分が休日であり、かつ自分の体調や都合がついた場合のみ、気が付いた範囲で(もしくはパートナーにお願い等された時など)家事・育児を行う。

 

私にとっての役割分担に対する意識の基本はAでありたいと思っている。けれども、自分の能力やその時々の精神状態などを鑑みると、かなりの頻度でBを求めたいという心情にどうしてもなってしまう。

 

一方、夫にとってのそれはBを理想としながらのCであり、時と場合によりAにならざる得ないというのが現状のようだ。(夫の言い分としては、気力と体力と能力がついていかないゆえのAなのだろうと思うけれども)

 

 

相手の状況、自分が置かれている条件次第で「仕方がない」と思えるボーダーラインが違ってくる私

 

夫が仕事の時間、出社前、帰宅後の忙しい時間、目に見えて疲労困憊しているときは、私は素直に「仕方がない」とあきらめることができる。けれども、夫が一人時間を楽しんでいる時間、ソファーで居眠りをしている時間、一人時間の影響で帰宅後ひどく疲れているときなどは、単純に「仕方がない」と私はあきらめることができない。(本音を言えば、出社前や帰宅後も、気力と体力に余裕がありそうなのであればもっと積極的に動いて欲しいと思うときもあるのだけれど。私ありきの家事と育児に対し、手放しで助かったありがとう!!と言えないときも、正直あるため)

 

その一方で、日々娘たちと接していると、「母親は常にニコニコの太陽であるべきだ(ありたいと思う)」と言う考え方が日に何度も頭をめぐり、反省と後悔を繰り返しているせいか、夫に対しても「もっと寛容に、おおらかな気持ちで接するべきなのでは??」という疑問もまた頭の中をしばしば過ることがある。

だからこそ、素直な自分の心の声と、「こうあるべき(ありたい)」という理想像との狭間で、もやもやとしてしまうのだろう。

 

自分の心に素直になりたい。けれども、そうすると母親としてダメになってしまうような気がする・・・・・・そんな思い込みが、自分で自分を苦しめているのか知れない。