日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。

"名もなき家事"~夫にとって家事、私にとっての家事

先日、"名もなき家事"に関する記事を読んだ。

 

news.mynavi.jp

 

「炊事・洗濯・掃除」以外の、こまごまとした家事のことを"名もなき家事"と名付けることで、家事ついて考えを巡らせるきっかけになるのであれば、とても意味深いことではないだろうか??

 

"名もなき家事"を私が率先してやる理由

私は専業主婦であるのだから、家事をするのが仕事だ。とはいえ、しつけの延長線上のような「それぐらい自分でやってよ」的なこまごまとした家事は、個々で完結してほしいなとは思う。

我が家の場合、名もなき家事と聞いて私が一番に思いつくのは、スリッパとペットボトルの片づけだ。

そもそも夫は部屋が多少散らかっていても気にならないタイプだ。スリッパが出しっぱなしでも、空のペットボトルがテーブルの上に転がっていても、何とも思わないらしい。

一方の私は、部屋が乱雑な状態を気にするタイプだ。もっとも、雑誌に登場する部屋のような理路整然としたきれいさはなく、ぱっと見雑然としてはいる。けれども、テーブルには物を置くスペースは当然あるし、床の上も下の娘が安心してそして存分にハイハイするだけのスペースは十分に確保されている。 

自分の居心地の悪さだけの問題ではない。下の娘の誤飲の問題もある。こまめに片づけたほうが、うっかり何かを拾って食べたり、何かの拍子にテーブルなどの上から物が降ってくるなどという事故を防止することもできる。

必要なものを必要なときの取り出すためにも、片付けや整理整頓は必要だ。けれども夫は、なぜか積極的にやらない。

 

夫にとって、名もなき家事と呼ばれている家事のいくつかは掃除や料理の一環だと思っているところがある。日々責任を持って「炊事・洗濯・掃除」をやらないからこそ、目につかなかったり、必要性や不便を感じにくいのだろう。だからこそ夫はそれらの家事に頓着しないのかもしれない。

 

 

夫と私、家事に対する優先順位、温度差

私の夫が家事をしない(できない、気付かない、気にならない)理由は、いくつかある。

  1. 家にいる時間の長さ。
  2. 夫と私の家事に対する温度差。
  3. それぞれのこだわり。(夫と私、家事の程度や頻度やり方など)
  4. 家事に取り組むスタンスの違い。
 

とりわけ、夫と私の家事に対する温度差の違いは大きい。

夫と私では当然家の中で過ごす時間の長さが違う。そうして、主立って家事をするのは、私だ。だからこそ、私は夫より、より家の中を快適にしたい、と思う気持ちが大きいように思う。

また、その快適性の中には、家事の効率化も含まれてもいる。

娘たちのお世話をしながらの家事に苦手意識がある私は、娘たちが一人遊び(時折二人遊びも)している時間、寝ている時間、夫がいる時間のうちに、できるだけ家事を終えてしまいたい、というこだわり(わがままでもあるのかもしれない)がある。それゆえ、家事を心穏やかな状態で取り組むことができる時間帯は非常に限られてしまう。だからこそ、中長期的な目で見て、家事を短時間に詰め込んでしまいたくなってしまう。一方、夫にとっての家事は、私と共同でやるものであることが多い。だからこそ、家事一つ一つに、緊急性や必要性を感じにくいのかもしれない。

 

 また、夫が確実にその家事をしてくれるとは限らないという理由で、私が家事を抱えてしまうことも、温度差を広げてしまう大きな理由であるように思う。

夫にとっての家事は、「するべきもの(生活に支障が出てしまうため、せざる得ないもの)」であると同時に、一部の家事(主に、名もなき家事に属するであろうものが多い)は「自分が気が付いたときに、自分の心と体のコンディションが整っていて、かつ自分の許容範囲が超えてしまったときに、自分がしたいと思ったタイミングで」するものである。

一方の私にとっての家事は、「今するべきもの」の割合がその他の家事に比べてだいぶん大きい。それゆえ、最終的にこなさなければいけないのであれば、するかもしれないし、しないかもしれない夫に任せる(少しの期待もあり)のではなく、自分一人で完結したほうが、多少体力的に無理をしてでも精神的には楽である場合も多々ある。 

 

 

温度差が生まれてしまうことは、仕方のないことだ。

仕方のないことだけれども、だからと言って「しょうがないか」では済ませられない自分もいる。

「察してちゃんはよくない、ちゃんと言わないと」とは思う。けれども、それを必要としていない、不都合を感じていない人間に対して、「お願い」することに、私は大きなハードルを感じてしまう。

学校生活でも、社会人生活でも、言葉は悪いが「人を動かす」という経験をあまり積んでこなかったことも大きいのかもしれない。

 

もっとも、自分の心と体に余裕があれば解決しうる問題でもあるのだろうけれど・・・・・・

楽しかった、という答えだけを期待していた夫と母

先日、友人(偶然にも、彼女の娘も上の娘と同じ幼稚園に通っている)に誘われ、彼女の実家で開催されるBBQに参加する機会があった。同じく、3組の親子(所謂同じ幼稚園に子供達が通うママ友ではあるが、気の置けない関係でもある)や、彼女の両親の知人(自治会の集まりも兼ねていたらしい)も数十人おり、とても楽しく賑やかで豪勢な集まりとなった。

当初、夕方には帰る予定ではいたのだが、友人の勧めもあり8時近くまで3人のママ友も一緒に過ごすことになった。夫には事前に連絡をし、自分の夕食はコンビニで済ませるからというありがたい返事をもらっており、最後の片づけまで残ることができた。

もっとも、私は下の娘も連れての参加であったので、片付けはもちろん、メインのBBQもろくに手伝うこともできず、少し肩身の狭さを感る場面は多々あった。

夫は仕事だったため下の娘の世話をお願いすることは当然できず、私の両親も遊びが理由であること(両親なりの線引き)もあり預けるという選択肢もなかったからだ。

 

BBQは、もちろんとても楽しかった。たくさんの種類と量のお肉に、海鮮、新鮮な野菜、種類豊富な飲み物。次から次へと出てくるデザートのフルーツにお菓子。友人たちとの尽きない楽しい会話・・・・・・

けれども、やはり体力的にも精神的にも疲れてしまったことは否定できない。

上の娘は、他の子供たちと勝手に遊んでいたので、負担感は全くなかった。けれども、下の娘はまだハイハイとつたい歩きの段階なので、当然つきっきりだ。目も離せない。上の娘のトイレの付き添いや、自分のトイレなどのちょっとした所要で席を立たなければいけない時は、友人たちに頼まなければならない。もちろん、皆快く引き受けてはくれるのだけれど、ちょっと悪いなと思いながらのお願いは、ちょっとづつ私を疲れさせる。「ありがとう」と「ごめんね」の繰り返しと、勝手の違う場所での娘のお世話に、「心から、リラックスして"楽しめたか??」と聞かれると、聞かれた人によって答えが違ってきてしまう自分がいる。自分のペースで飲み食いもできず、娘を一人で放っておくこともできないのだ。当たり前のことだが、ゆっくりとくつろぐことはできない。

 招待してくれた友人はもちろん、一緒にいたママ友たちへの素直な感想は、ただただ単純に「楽しかった」なのだ。けれども、夫に対してはどうだろうか??なぜだか不思議と「楽しかった」だけではすまない自分がいる。

 

ただ遊んできただけじゃない、と言った母

BBQの翌日、母に楽しかった。けれど、ちょっと疲れた。まだ体がだるい、と愚痴ったところ、「ただ遊んできただけじゃない」と非難めいた答えが返ってきた。おかげで、それ以上愚痴を言うことができなかった。どうやら、「楽しかった」という感想のみが、母にとっての正解だったようだ。

 

子供を連れてのBBQは、単なる遊びなのだろうか??

当日、上の娘の面倒はともかく(基本は勝手に遊んでいたので)、下の娘の面倒はしっかり見ていた。当たり前だ。家でやっていることと同じことを、BBQでもしていたのだから。けれども、遊んでいるといわれる。食事作りをしていないから、だろうか??

私は上の娘を授かるのが比較的遅かったこともあり、”遊ぶこと=一人で自分のためだけに好きなことをすること"だと思っていた。けれども、母にとっては違ったらしい。

母親になると、遊ぶことの定義も独身の時のそれと違ってきてしまうものなのだろうか・・・・・・

 

 

楽しかった、という答えだけを期待していた夫

夫も母と同じ反応だった。

その日、夫は帰宅後着替えるとそのまま趣味の外出に出かけてしまっていた。夕食は、外出先のコンビニで済ませたようだった。

そうして、外出からの帰宅後、夫は何度も何度もしつこく聞くのだった。「楽しかったか?」と。

けれども、私はとても疲れていた。帰宅後子供たちをお風呂に入れるという、大仕事が残っている。寝かし付けまで一人でやらなければいけない。おまけに、夕方までに帰るつもりでいたので、洗濯物をたたむなどの家事も残ったままだ。夫が、それらの家事を見て見ぬふりをして(もしかして、気が付かなかっただけかもしれないが)、一人出かけてしまったことにも、私は腹を立てていた。

やらなければいけない仕事がこまごまと残ったままの部屋の中で、体はくたくたに疲れている。結局上の娘はお風呂に入ることなく寝てしまい、下の娘だけ私一人でお風呂に入れ、寝かしつけをし、残った家事をしているところに、夫が帰ってきた。その際のセリフが「楽しかったか??」だった。

 

八つ当たりなのかもしれない。けれども、どうしても私は素直に「楽しかった」と答えることができなかった。そうして、「疲れた」を連呼し、夫の気分を害する結果になってしまった。

 

夫に対し、理不尽な怒りが込み上げてきたのだ。

なぜ、BBQ当日に仕事の休みを取って下の娘を見るという選択肢がなかったのか。(普段は自分の趣味の予定優先で、土日に月一度の休みを取るため)

なぜ、帰宅後外出してしまったのか??(私が常日頃、私一人で二人の娘をお風呂に入れることに、四苦八苦していることを伝えているにもかかわらず)

 

最後は、私が八つ当たりをしてしまったことを夫に謝り、ことは収まったのだけれど。

 

 

母親とは、遊びに行くときも子供が一緒で、かつどんなに疲れていようとも、「楽しかった」という答えしか、返してはいけないものなのだろうか??

遊んだことを理由に滞ったままの家事は、手伝いの対象にはならないのだろうか??

色々と考えてしまった。

ムーニーのCMについて、感想。

オムツのブランドムーニーのCMが話題になっているようだ。

 

www.youtube.com

 

賛否両論あるようだが、私は特別違和感なく見ることができた。

私の下の娘はまだ1歳になっていない。新生児ではないが、まだまだ手のかかる月齢だ。夜の授乳もあるし、寝愚図りでどうしようもないときもある。のんびり自分のご飯は食べられないし、お風呂も湯船につかってゆっくりはなかなかできない。

けれども、幸いにも今の私は恵まれた環境にある。自分の両親とは別居ではあるが近距離に住んでいる。夫の帰宅も遅くても10時を回ることはない。いわゆるワンオペ育児をせざるを得ない状況にはもちろんあるものの、いざとなったらいつでも誰かしら(基本的には自分の両親だけれども)に助けを求められる環境にいるせいか、このCMを見て「生傷をえぐられるような不快感」や「トラウマ」なるものは、私は感じなかった。

 

このCMは確かにリアルだ。だからこそ、私は意味のあるものだと感じている。

ワンオペ育児を称賛している、とも私は思えなかった。それは、登場するママの大変さが十分に伝わってきたからだ。もし私がワンオペ育児を称賛する動画を制作するのであれば、その背景にあるしんどさはあえて無視して、「楽しい育児」のみを前面に押し出したものを制作するだろう。

この動画を見た、世の父親が反面教師として「ワンオベ育児のしんどさ」に気づき、我が身を振り返るきっかけになるのであれば、それはとても有意義なことである、と私は思った。

 

もしかしたら、このCMを見て世の男性陣が「あぁ、育児って素晴らしいなぁ(単純に)」「俺って育児手伝いすぎ??もうちょっと手を抜いてもいいのかな??」などと思ってしまったら、それは大問題だろう。
けれども、このCMの感想が「ワンオペ育児の素晴らしさ」に繋がってしまうのであれば、どんな「イクメン推奨」のCMを作ったとしても、CMに感化されてイクメンになることはないのではないか、とも思う。

 

「その時間が、いつか宝物になる」の、意味

このキャッチフレーズも、私はとても意味のあるものだと思っている。

頑張っている母親へ送るエールだと私は受け取ったのだけれど、どうやら少数派のようだ。

私自身がそういう思考に陥りがちなのだけれど、世の中にはしんどい思いをしているときは特に、頑張れば頑張るほどその先に大きな幸せが待っているはずだ、と思い込むことで、自分を鼓舞させる、という考え方をする人が一定数いる。

そういうタイプの人間に対する、応援メッセージであると私は受け取った。

と同時に、「(その頑張りは間違っているよ。)落ち着いて、周りを見渡してごらん。誰かがあなたに手を差し伸べているよ」や「パパはもっとママを助けてあげましょう!!(でも、魔法の言葉はないから、ママが頑張ってパパが手を出しやすいように働きかけてね)」というメッセージでは、遠回しに今の頑張りを否定してしまうことになりかねないのではないか、とも思ってしまった。

 

今頑張っているママに対して、その頑張りを認めてあげるメッセージが「そのがんばりが、いつか宝物になる。」という表現なのではないだろうか??

家事を(一人で集中して)させてもらっている、という感覚

私は専業主婦だ。そうして、私の仕事は家事と育児だ。だから、夫がする家事と育児は、あくまで「してもらっている」と思っている。いや、そう思いたいと思っている。

けれども、現実は心のどこかで「して当たり前」と思っている。

 

昨今のイクメンブームもある。

下の娘がまだまだ手がかかるという現実もある。

核家族であるという言い訳もある。

自分が忙しなく立ち働いている目の前で、くつろぐ夫に対しての不公平感やイライラもそう思わせる原因なのだと思う。

 

日々、「してもらってありがたい」という思いと「して当たり前。もっとしてほしい」という思いの間で、揺れ動いている自分がいる。

 

 

GW中、帰省した友人と久しぶりに長話をした。

友人は1歳の娘を都会で育てている。友人知人は身近にいても、自分の両親は新幹線の距離、夫の両親は飛行機の距離に住んでいるので、気軽には頼れない。それゆえ、彼女自身育児に行き詰まっている様子だった。

 

当日は、夫の趣味の外出中に友人を我が家に招き、友人の娘と私の娘二人を交えながら、のんびりと過ごした。

 

その際、友人がこんな話しをしてくれた。

「家にいる旦那を見てるとさ、育児してあげてる、家事してあげてる。ってオーラをすごい出してるんだよね。でね、それが育児に集中させてあげてる。家事に集中させてあげてる、って恩着せがましく受け取れちゃって、何か嫌なんだよね。旦那はさ、”仕事に集中させてくれてありがとう”とは言わないわけだからさ」

この感覚、私はすごく共感できてしまったのだが、賛否が分かれる意見でもあるのだろうな、とも思ってしまった。

 

 

夫が家にいる時、自然家事と育児は夫と私どちらかで分担する形になる。たいていは、夫が育児、私が家事(時折、上の娘に呼ばれたり、下の娘の愚図りがひどいときはおんぶをしながら)と言う役割分担に落ち着く。

 

普段、家事をしながらの娘たちのお世話のため、余裕を持って娘たちに接してあげられない時間帯が生まれてしまうことは、私のストレスの一つだ。

(自分の休憩時間と育児が切り離されないことも、私が不満をため込んでしまう理由の一つでもあるのだけれども。)

私自身のキャパシティーの狭さと、能力の問題だろう。できるだけ、家事と育児が切り離された状態にあることが、私にとっては好ましいシチュエーションである。そのため、夫が家にいてくれることは、私の心持を大きく左右させる。

それゆえ、「家事に集中させてくれて、ありがたい」と言う気持ちが、夫が家にいる間には、常にあるように思う。具体的に娘たちのお世話をしてくれていなくても、大人の目が一人分増えるだけでも、心理的な余裕が生まれてくるから不思議だ。

けれども、一方で欲も出てしまう。夫が家にいるうちにできるだけ家事を済ませてしまいたい、というわがまま、こだわりがうまれてしまい、夫に対し「もっと、もっと」と要求が上がってしまうのだ。育児中の家事に効率を求めること自体がナンセンスなのだろうけれど、無意識に求めてしまっているのだ。

悪い癖だと自覚はしているが、なかなか改善できない。

だからこそ、家事を(一人で集中して)させてもらっているという、夫への感謝の気持ちがありながら、同時にもやもやとした気持ちも抱いてしまうのかもしれない。

 

 

家事を手伝う、という表現

夫の家事を見ていると、時折「手伝っている」感が漂っているなぁ、と思うことがある。

おそらく、家事をえり好みしているからこその、感想なのかもしれない。家事だけでなく、育児でも同じことが言える。

 

先日も、下の娘がなかなか寝なかったため、私はおんぶ紐でおんぶをしつつ、皿洗いをしていた。すると、ちょうど手が空いていた夫は、ここぞとばかり「ちょっと出かけてくる」と家を出て行ってしまった。

もちろん、その前に「出かけてもいい??」と声をかけはしたのだけれど。その言葉の裏側に「もちろん、行ってもいいよね!!」という本音を垣間見てしまった自分がいた。

そこに、自分が洗い物をする、もしくは下の娘を抱っこしてあやす、寝かしつけるという選択肢はないようだった。(夜だったこともあり、生活リズム的には寝かしつけるが正解だと思われる。ただし、夫は下の娘を寝かしつけることが大の苦手でもある)

 

かつて流行った、「家事ハラスメント」という言葉

 「家事ハラスメント」という言葉が、一時期話題になったことがある。妻からの、夫の家事に対する心ない一言が、ハラスメントに値する、というのだ。

そんな家事ハラスメントを訴える夫に対し、「手伝う」という言葉とその姿勢に過剰に反応する妻たちの声が大きくクローズアップされていたことが、とても印象的だったことを思い出した。

 

なぜ家事ハラスメントが起こってしまうのだろうか??

なぜ多くの夫は、家事を「手伝う」のだろうか??

 

  1. 物理的に、家事をする時間が取れない。(長時間労働ゆえ、そもそも家にいる時間が短い)
  2. 体力的に、家事をする気になれない。
  3. そもそも役割分担として、家事は妻の役目である。
  4. 家事に対する優先順位、完成度に対する意識の差。
  5. 能力的に家事ができない、もしくは向いていない。(と思い込んでいる)
  6. 家事の必要性を感じていない。 
 

 おそらく夫自身にはもっと多くの言い分があるのだろうけれど。自分が忙しなくしているさなか、夫がくつろいでいる(ように見える。事実は異なるのかもしれないが)というシチュエーションに、言いようのない不快感やモヤモヤ、イライラを、私は感じてしまう。

 

できる、できないなのか。やる、やらないなのか。

家事や育児をしていて思うのは、目の前に娘たちがいて自分と娘たちの生活を滞りなく成立させるためには、家事や育児を「できる、できない」という次元ではなく「やる、やらない」という次元でしか語りようがないのでは??という疑問だ。

けれども、夫にとっては「ワンオペ育児」を経験していないせいか「やりたい、やりたくない」という判断基準で家事や育児に取り組んでいるのでは??と思う時が多々ある。

 

だからこそ、「手伝う」と言ってのけてしまうのだろうか・・・・・・