日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。

「(お母さんだから、子供がいるのだから)仕方がないよね」

「あたし、おかあさんだから」という歌詞の子供向けの歌が、数日前から話題になっている。

 

母親である「あたし」の一人称で語られる、子供がいるからこそ生じる生活の変化が、「我慢」という形で描かれているからだ。

 

そもそも、この歌の歌詞はSNSで「母親になったことで我慢をしていること」を募ったうえで考え作られていると言う。「我慢」というマイナスイメージが作品全体を覆っていることは、不思議なことではないだろう。

とはいえ、作者の作詞意図について、賛否両論あるらしく、随分と議論が分かれているようだ。

母親に対して、愛情という名の自己犠牲を求める歌詞の内容。そうして、この歌が子供に向けたのものだったことが問題視されているらしい。

 

 

生きていくうえでの「我慢」

 

私個人の、最初の歌への感想は、「確かに、我慢していることって、あるよなぁ」という単純な共感だった。とわ言え、歌詞に登場するシーン全てへの肯定ではない。

母親になったことで、様々な変化が生まれたことは事実だ。

私の場合、睡眠や食事、入浴など、日常生活全般が自分のペースで回せないことに、イライラや不満を抱いてしまい、後悔と反省の毎日だ。けれども、娘たちとの生活には喜びももちろんある。

一つの布団で三人で寝るとき、狭苦しく寝返りも打てず、無理な姿勢を強いらはれはするものの、娘たちの無邪気な寝顔にはとても癒される。

 

 

おそらく、多くの母親にとってもそうなのだろう。我慢していることもあり、あきらめていることもあり。反対に楽しんでいることもある。それが現実ではないだろうか。

 

そもそも、人間生きていくうえで何かしらの「我慢」を強いられる場面に遭遇することは、ままあることだ。

もしかしたら、まったく我慢せずに生きていられる人もいるのかもしれない。

けれども、ほとんどの人間が大なり小なりの「我慢」をしているのではないだろうか。「母親」でだけではない「父親」や「会社員」「学生」「主婦」そうして「子供」であってもそうだろう。

では、なぜ「母親」の我慢はこんなにも賛否両論分かれるのだろうか??

 

思うに、「母親」の我慢の中には「しなくてもいい我慢」や、「母親だけが強いられるべきではない我慢」などが含まれているからなのではないだろうか?? 

  

積極的な受け入れなのか、消極的な受け入れなのか、我慢なのか・・・・・・

 

そもそも、変化に対する選択肢は我慢だけではない。

「積極的に受け入れる」のか「消極的に受け入れる(あきらめる)」のか「我慢する」のか。受け取り方は様々だ。

けれども、それを選び、その責任を負わされるのは常に「母親」だ。

そこには当然「父親」の姿も存在する。けれども社会的に多くの父親は「仕事」という大義名分のもと、「育児の責任」から、もれなく免除されているケースも多々あるように、私は思う。

少なくとも、「子供がいるから」飲み会に誘うのを控えよう、雑談で会社に引き留めるのはやめよう、子供抜きのイベントに誘うのはやめよう、などといった意識的な行為は女性より男性のほうが少ないのではないだろうか。

 

一方で、テレビや小説で描かれる正しい母親の姿、こうありたいと当の母親自身が思い描く理想の母親像は「変化を積極的に受け入れ」かつ「それらを心の底から楽しんでいる」「笑顔を絶やさない母親」の姿だ。そこには育児は楽しむべきである、というプレッシャーめいた圧力もまた社会全体にあるように思う。

だからこそ、「我慢」というフレーズに多くの母親が過剰に反応してしまうのではないだろうか??

 

 

「私、母親だけど」と胸を張って言うためには

 

私自身は完璧な母親とは程遠い。

朝は弱い。自分の料理の腕にも自信がない。感情の浮き沈みを子供たちに隠し切れず、時には理不尽にぶつけてしまうことも多々ある。

 

私の場合は特に、そんな自分自身の短所に十二分に自覚があるがゆえに、胸を張って「私、お母さんだけど」と続けることができない。

 

 

 個人的にとても強く思ったのだが、「私、お母さんだけど!!」胸を張って言うためには、それなりの条件がそろっている必要があるのではないだろうか??

 

  • 常に主体性をもって率先して家事・育児と動いてくれるパートナーの存在。
  • 経済的ゆとり。
  • 手は出すが口は出さない両親や義理両親が身近にいること。
  • 母親自身の能力や性格。(自分のように、母親としての自分に後ろめたさを感じていては、堂々と開き直ることも難しいように思う)

 

自分が母親として何か我慢せざる得ない状況に陥った時、誰かに助けを求めることが難しく「(お母さんだから、子供がいるのだから)仕方ないよね」と、ため息交じりに自分に言い聞かせねばならない場面が、私にはある。

 

そうして、そこには「子供がいる生活とはそういうものだ」という、社会的圧力に近い思い込みと、身近な人間(夫であったり、自分の両親であったり、夫の両親であったり)の何気ない言葉がけの影響も多きように思う。

そんな時は、愚痴が愚痴として受け止めてもらえず、ガス抜きのつもりが逆にストレスになってしまう。悪循環だ。

 

 

もっと、自分に自信をもって、「私、お母さんだけど」と胸を張って言えように、私もなりたい、と切に思う今日この頃だ。

体調を崩しているときに、「できる事はするよ」と言われて。

二週間ほど前から体調を崩している。

今はだいぶ体調を持ち直してはいるものの、本調子ではない。私だけではなく、上の娘もまた程度の差こそあれ私と同じ症状に悩まされている。今の季節にありがちな風邪だ。特に咳きがひどく、娘達に申し訳ないなぁと思いつつも、寝かしつけをしながらついマスク越しに娘たちの顔めがけて「ゴホゴホ」とやってしまう。

一番症状が重いのは私だ。マスクをしながら、時々咳きで呼吸困難になりつつ、実家の両親の助けを大いに借りつつ、日常生活を送っている。

送ってはいるものの、本音を言えば、一番体がしんどい時は正直何もしたくないと思っていた。特に食事作り。私個人の非常に偏った感覚なのかもしれないが、たとえマスクをしていたとしても、咳きをゴホゴホさせながら作る自分の料理は、あまり食欲をそそられるものではないだろう。

 

 

「できる事はするよ」=「できない事はしないよ」

夫も一時体調が優れず薬に頼る生活の中、いつも以上に家事・育児に協力的な姿勢を見せてくれている。

そうして何かにつけて「できる事はするからね」と声をかけ励ましてくれている。

けれども、その言葉の裏には「自分も大変だけれども、自分なりに頑張っているよ」「でもこれ以上のことはできないよ」という、いい訳じみた本音が見え隠れしている。

 

夫にはとても感謝している。

感謝しているのだけれども、自分が極限までしんどさを抱えていた時の「できる事はするよ」と言う夫のセリフに、何故か突き放したような冷たい響きを私は感じ取ってしまう。

もしかしたら、頭に「ごめんね」の一言がつくだけで、私の受け取り方も随分違ってきたのかもしれないのだけれども。

 

 

夫はサラリーマンだ。出社時間は決まっているし、定時もある。もちろん残業もある。遅刻や早退は積極的には歓迎されない。有給休暇は、暗黙の了解的に冠婚葬祭にのみ適用される。

もっとも、自分も会社員を経験しているので、夫の事情は十分に理解はしている。

しているのだけれど、自分の体がしんどい状態の時「俺はこれから仕事だから」と、あっさりと当然のように外出されてしまうと、えもいわれぬ不快感を感じてしまう自分がいる。

 

 

「夫ができる事」「私がして欲しい事」は違う。

当然だが、「夫ができる事」「私がして欲しい事」は違う。

体がしんどいとき、私が夫に求めていたことは、”極力私の負担を減らすための努力”だった。けれども、夫にはその能力も、時間的な余裕も、体力的な余裕もない。だからこその「できる事」なのだろうけれども、その「できる事」の範囲は、私の体調如何にかかわらずあまり変わらない。そこに、睡眠時間や休憩時間を削ったり、自分の仕事を調整したり、苦手意識がある家事・育児(料理と娘たちの寝かしつけ、および下の娘の夜泣きの対応)に積極的に関わろうとしたりする姿勢を、私は見ることができなかった。そうして、その事実に、えもいわれぬ寂しさを私は強く覚えてしまった。

 

夫はサラリーマンだ。

だからこそ、というべきか。出社時間が決められていて、退社時間も決められている。仕事の進み具合では残業ももちろんある。遅刻や早退はあまり歓迎されない。有給休暇の取得理由は、暗黙の了解的に冠婚葬祭と自身の体調不良に限られている。家にいる時間が少ないのだから、家事・育児をする時間が取れないのは仕方のないことだ。

私も会社員を経験している。当然、夫の事情を十分理解しているのだ。そう、頭では理解している。「仕方のない事」だと。

けれども、自分の心と体が悲鳴を上げているときには、そんな「当たり前」は通用しない。無意識のうちに、夫に”無理”を求めてしまう自分に気づき、自己嫌悪に陥ってしまう。

 

 

私が「してほしい事」をストレートに伝えれない理由。

もし同じような愚痴を聞かされたら、多くの人は思うだろう。「どうしてもっと夫に自分の気持ちをぶつけないのか」と。

私が愚痴を聞かされる友人の立場だったらどうだろう。親身になって話を聞き、一通り共感し、最後は励ましの言葉を送って終わりだろう。内心「もっと旦那さんにやらせればいいのに」と思いながら。自分のことは棚に上げて。

 

自分なりに、理由はいくつかあるのだ。

一つ目は、今までの日常生活中で習慣化してしまった、不満をため込んでしまうという悪癖を、いまだ直すことができていないから。

二つ目は、夫の体力的、物理的、そうして能力的な「できない理由」を考慮せざる得ないから。

三つ目は、家事・育児を積極的にしてくれている夫に対する、申し訳なさがあるから。

そうして、四つ目は、率先してやろうとするそぶりを見せない人間に指示を出すことに、抵抗を感じてしまうからだ。

 

夫にもっと素直に気持ちを伝えることができれば、それが一番の近道なのだろう。けれども、感情的にならず、非難めいた話口調にならずに、今の気持ちを理路整然と伝えることは、今の私にはまだまだ難しい事だ。

 

かつて友人にこんなアドバイスをされたことを思い出す。

「旦那がいると思うから、やらない事にイライラするんだよね。いないと思って生活するほうが、精神衛生上良いかもよ」

確かに、今の私の生活は、「夫ありき」で成り立っている。けれども、当の夫は仕事で不在がちだ。どんな状況であっても、時間が来れば家出ていくし、決まった時間に帰ってくることもできない。

時折、今現在の「夫ありき」の生活リズム自体が間違いではないか、と思う時がある。気持ちだけでも、「夫はいないものとして」生活していたほうが、気持ち的にも楽なのかもしれない、と思うこともある。けれども、上の娘に関して言えば、夫でしかできない世話(お風呂や着替えなど。私が対応すると激しく嫌がる)がすでに出来上がってしまっている。

もう、時すでに遅しなのだろうか。

 

「保育士は誰でも出来る仕事」という発言について考える。

興味深いタイトルの記事を見つけた。

www.tantandaisuki.com

 

日々の生活の中で、娘たちの言動一つ一つに翻弄され続けている私にとって、「保育(育児)が誰にでも出来る、瑣末な仕事である」と揶揄されているような、複雑な気分になった。

 

保育士の仕事と、家庭の育児を一緒に語ってはいけないのだろうけれども。色々考えさせられてしまった。

 

ブックマークには、このようなコメントを残した。

 

誰にでもできるのかもしれないけれど、「正しい保育」「専門性の高い保育」を、子供一人一人の個性や特性を踏まえた上で行うことは、とても難しいことだとは思う。

 

経験も乏しく、知識もなく。手探りの状態で、真偽の判断もつかないまま、母親からのアドバイスを真に受け。ネットや書籍の中の膨大な情報に振り回され。

 

多くの母親達が無難にこなしているであろう育児。

けれども、ネットやリアルの言葉の中には「しんどさ」や「難しさ」に嘆き、苦しむ声で溢れかえっている。

 

毒親」「虐待」「育児放棄」「過保護」「ひきこもり」「不登校」などなど。事件・事故が起こるたびに、様々な家庭問題が取り沙汰される昨今。

正しい知識の下、正しい技術を用いて子供に接することは、子供にとってとても大事なことだ。(もっとも、今の自分がそれができないがために、日々悩み後悔しているのだけれど・・・・・・)

 けれども、母親の皆が皆、保育に携わる人間の皆が皆、「正しい知識と技術」の下で子供たちと接しているわけではない。(沢山の家族問題、そうして保育園での事故や不祥事のニュース等を垣間見てつくづくそう思う)

 

 

私が「誰でも出来る仕事」と言う言葉に過剰判のした訳


「誰でも出来る仕事」と言う表現に、特別な知識や技術が必要でないという、どこか見下したようなニュアンスを、私は読み取ってしまった。
けれども現実はどうだろう。

給料の安さや労働条件の悪さを理由に、離職率は高い。
保育士を志した人間の皆が皆、長く働き続けたいと思わない仕事なのであれば、誰でも出来る仕事であるとは言いがたいだろう。
また、子供は一人ひとり性格も体つきも違う。教科書の例題のようなやり取りに終始することはい。また、命をも預かっている。子供が好きでないと長く続けることも難しいだろう。
 
そんな保育士という専門性を問われる仕事でさえ、世間一般での評価が低いという事実。
そうして、そんな「誰でも出来る仕事」であるはずの「保育」の延長線上にある、「育児」に、素人である母親の私は日々悩み苦しんでいるという現実。

 

娘のわがままに対する受け答え。

下の娘と上の娘どちらを優先すべきか??

感情的になってしまいそうなときの気持ちのコントロールの仕方。

好ましくない行動に対する修正の仕方。

などなど、育児の技術的な面だけではない、一人の人対人としての、様々な人間関係の悩みに対して、ケースバイケースどう適切に対応すべきか??とても難しいことだと、私は考えている。だからこそ、「誰にでもできる」というフレースに過剰に反応してしまったのだと思う。

 

 

保育士に求められる「専門性」が疑問視される理由

 

私は保育園を利用したことがないので、これは想像の域を出ない。

思うに、万が一保育士が子供に対し「不適切な対応」をしたとしても、よっぽどの事がない限り”保育園”や”保育士”は大々的に責任を問われることがないのではないだろうか??

 

例え「不適切な何か」があったとしても、その何かは家庭で「リカバリーできる」、もしくは「リカバリーするべきである」という前提条件の下、保育が行われている面があるのでは、と思うことがある。

そうして、子供を預けた側の親の責任問題が平行して語られがちであるように思う。

 

私の想像する、保育士に求める能力の一つに「子供に寂しい思いをさせず、楽しいく安全な保育園生活を過ごさせることができること」というものがある。親の代わりに保育をするのであれば、子供たちのメンタルのフォローも保育士の仕事の重要なファクターの一つだろうと考えられるからだ。

けれども、かつて保育園に通っていた人の中には「保育園が楽しくなかった」「寂しかった」という感想を持つ人が一定数いる。もちろん、個々の特性や、保育園・保育士との相性も当然あってしかるべきだろう。

だけれども、根強い「保育園=子供がかわいそう」という固定観念が払拭されない背景には、このような育士の力量のばらつきにも問題があるのかもしれない、とも思ってしまう。(保育園という施設の性質、そうして人員的な問題から、致し方がない面も当然あるだろうけれども)

 

そうして、だからこそ、世間一般の認識では”保育に対する専門性”が重要視されにくいのだろうか?と思うのだ。

 

そもそも、保育=育児は素人である母親が家庭でしかも無償でやることだ。

学問的にも様々な研究が進む一方、本来であればその質を問わなければ誰でもできるであろう保育を、「正しく、そして豊富な知識と経験をもった保育士」に求めることに、違和感を感じている人間が多いからこその問題なのかもしれない。

 

もしかしたら、保育に専門性を求めること自体が間違っているのだろうか??

 

これは、保育園を経験したことがない私の見解だ。

保育園を利用したことのある方々の意見にとても興味がある。

自分がされて嫌なことは、相手にはしないという考え方

先日、上の娘が秋の遠足だった。

けれども目覚まし時計に全く気が付かず、時間ギリギリになって夫に起こされる形になってしまった。

ただでさえあわただしい朝の時間。私は遠足の準備をし、朝食を整え、お弁当を作る。夫はいつもどおり上の娘の食事のサポートや身支度を手伝う。けれども、せわしないだけでない、なんともいえないぴりぴりと張り詰めた空気が、朝から充ち充ちていた。

 

 

前日の夜に準備万端整えていればよかったのだけれど、それを怠り、自分の趣味を優先してしまった。ついでに、自分の夕食が遅かったこと、連日娘たちと一緒に寝てしまっていて、夜の純粋な自由時間が持てていなかったことを理由に、夜更かしもしてしまった。 

完全に自分に非がある。それは紛れもない事実だ。

そのため、夫の「あと15分早く起きていればこんなにバタバタしなくてもすんだのに」という正論に言葉を返すこともできず、だるさと空腹を抱えたままいつものように娘のお弁当の準備と夫の朝食の準備をした。

 

けれども一方で、私が寝たのは夫が布団に入った10後だったこと。しかも、寝入りに下の娘が起きてしまい、寝かしつけに手間取ってしまったこと。そうして夜泣きの対応のこともあって(たった一回のことではあるしすぐに寝てくれてはいるのだけれど)、万全ではない体調だった私は、体だけでなく心もひどく疲れてしまったのも事実だった。

 

 

自分が許しているのだから、相手からも許されたいと思った私

 

私の夫にも直してほしいことはいくつかある。つど小出しにして要望は伝えてはいるのだけれど、なかなか改善されないことがいくつかある。

その中の一つに、生理的欲求つまり睡眠に関することがある。

けれども、これに関して私は、自分の意志でどうこうなるものではないのであきらめる努力をしている

 

私の夫は、ソファーに座るとものの5分で寝ることができる。例え、娘たちが騒いでいようとも、目の前にやらなければいけない家事が残っていようとも。そうして、一度寝てしまうと、いくら起こしてもすぐには起きない。

そんな時、私は態度には出てしまっているのだろうけれども、夫がいないものとして行動する。例え、いつもの休日の一人時間を存分に楽しんだ後の転寝だったとしても。起きない(起きられない)ものは仕方がないのだ。

どんなに自分がしんどくても、起きない(起きられない)相手に何かを要求することは、ひどくばかげていることだとも思う。

 

 

夫に自分と同じ思考・行動を求めること自体が間違っているのだと思う。そうして、夫と私では置かれた状況も、与えられた役割も違う。

けれども、私が不快に思い、常々直して欲しいと思っていることを「仕方がない」と改善する努力や代替案を提示しない夫から、なぜ自分ばかりが責められなければいけないのか・・・・・・

その日、そんな不満を、夫に対して抱いてしまったのも、事実だった。

屁理屈だとも思う。思うのだけれども、心奥底で、こんな本音が渦巻いているが為に、夫に対して素直に反省し、体質改善の努力や対応策を考え実行を徹底するとことが、私にとってとても難しくも思えてしまう。

 

 

自分がされて嫌なことは、相手にはしないという考え方。

 

遠足の日の朝、夫に言われた言葉は図星だった。けれども、私なりの言い分もあった。

そこをぐっとこらえたのは、相手の努力不足で起こった出来事において、自分が何かしらの不利益を被ったとき、例え相手にどんな理由があろうとも、何か言い返されたりしたら面白くないだろうな、と私は思ったからだ。

少なくとも、もし私が夫の立場だったならば・・・・・・

不愉快に思ったはずだ。

 

けれども、このような考え方をしているせいで、言いたいことも言えず、何かにつけて気持ちを抑え込んでとしてしまう自分がいるのも事実だ。

 

 

【反省】娘たちに対しはどうだろうか??

 

近頃、上の娘が私が起こること(叱ることではない)に過剰に反応するようになってしまった。自分が夫から怒られることには傷つき不満をため込むくせ、自分の娘に対してはひどく矛盾した行動をとってしまっていたのだ。

娘という一人の個人に対して、自分の従属物のように扱っている(そのように動いてくれたほうが自分にとって都合がいいため)という、いやらしい考えもあるようにも思う。

 

もしかしたら、夫に対して抑え込んでしまっている言葉や気持ちが娘たちに向かっているのだろうか・・・・・・

気持ちを切り替えて、娘たちの言葉と気持ちにもっと向き合っていきたいな、と思った。

 

「俺には関係ないけどね」と言った夫。

私は子供の頃から朝が弱い。そうして、そんな体質は妊娠・出産後も変わっていない。

どんなに早く寝ても、結果は同じ。すっきりと目覚めることができない。理由も不明だ。低血圧ではあるが、それだけが理由なのか。ただの甘えなのか、気持ちの問題なのか解らない。(言い訳ではあるが、一人だけで一つの布団で、朝まで熟睡と言うことが難しいことも大きいのでは??と言う想いも正直あるのだけれど・・・・・・)

 

それゆえ、と言うべきか。朝の急がしい時間は、夫に大いに助けられている。上の娘の朝のトイレから、着替え。食事のサポート。あれやこれやと文句や注文を付ける娘の言動に、時に応え、時に諌め。とてもよく動いてくれている。助けられている。感謝もしている。

 

けれども、朝が弱く、睡眠の質も確保されず(添い寝で寝落ち。一つの布団で二人の娘と三人で寝る。夜泣きで一回は起こされるため)、おまけに空腹。(下の娘の相手をしつつの朝食の準備のため、要領の悪い私は一緒に朝の食卓を囲むことができない)そうして、自分の身支度もままならない忙しない空気の中、上の娘の朝の一連の流れ(トイレ、着替え、朝食、歯磨き)がスムーズに行かないのは、「私が朝早く起きないからだ」と決め付けられるたびに、なんともいえない気分になってしまう。

 

 

「俺には関係ないけどね」と言った夫。

 

ある朝での出来事だ。いつものように、おしゃべりに夢中でだらだらと朝食を食べ、途中で席を立ち遊び始める娘に対し、「幼稚園に遅刻するよ!!」とせきたてる夫と私。その中で、何かのついでに「まぁ、遅刻しても俺には関係ないけどね。○○先生(集団登園の引率の先生)に注意されるのはママだしね」と言われたことがある。

夫にっては、自然な話の流れの上での発言だったようだ。もっと私が早く起きて、機嫌よくてきぱきと朝の準備をしていれば、朝から娘を急かすことなく、私たち親もイライラしなくてすむ。確かに正論なのだ。

そうして娘が集合場所に遅れても注意を受けるのは私だ。間違っても、「もっと旦那さんに協力してもらってください」とは言われない。

けれども、朝が弱いゆえの体のだるさと空腹を抱えていた私には、この他人事めいた夫のセリフにカチンときてしまった。

 

 

夫の言動に対して、イライラしてしまう理由

 

先日こんな記事を目にした。

kazenoya.hatenablog.com

 

赤ちゃんの泣き声にイライラしてしまうのは、赤ちゃん自身が持つ防衛本能のようなものでもあるらしい、という話を思い出した。母親などの周囲の音の名注意をひくために、イライラするようになっている。だからこそ、周囲の大人は赤ちゃんを泣き止ませようとするのだ、という話だ。そうして、泣き止ませる手法を間違うと、虐待につながってしまうという。

 

 

さて、この記事の中で、こんな件があって、大いにうなずいてしまった。

>でも、どのママさんたちもそのイライラをストレートに表現し続けているわけではなくて、ものすご〜くイライラすることを我慢してますよね。そんな緊張状態の時に安全装置を外して引き金を引いちゃうのって、やっぱり夫だったりします(笑)。

 

上の娘に対しては特に、私の感情や体調が原因でイライラしているときに言葉がきつくなってしまったり、態度や返答がぞんざいになってしまったときには、すぐに反省し謝るようにしている。そうして、必ず娘を抱きしめるようにもしている。

不思議なことに、娘に対しては素直に申し訳ないと思えるのだ。

 

けれども、夫が引き金となってのイライラは、なかなか自分の中で反省も消化もできないことが多い。結果ぶすぶすと燻ぶり続け、ぐずぐずと思い悩み続けることになる。

 

仕事をしていないのだから家事・育児は私の仕事だ。頭ではわかっているのだけれども、だからと言って夫が育児に対して無責任でいいはずはないとも思っている自分がいるからだ。

 

いや、夫が育児に対して責任を感じていないというと、語弊があるだろう。

けれども、夫は日中仕事をしている。普段娘たちと接する時間は絶対的に短い。それゆえ、と言うべきか。夫が娘たちの成長や躾、健康面のことで、第三者から責任を問われる機会は極端に少ないこともやはり事実だ。

 

当たり前だが、幼稚園への送り迎えは基本私だ。

病気やケガで病院へ連れて行くのも私だ。

検診で病院に連れて行くのも私だ。

育児支援センターに連れて行くのも私だ。

育児についていろいろと思い悩むのも私だ。

幼稚園の先生や病院の先生、保健士さんや支援センターの職員などから、注意やアドバイスを受けるのも私だ。

そうして、受けた注意やアドバイスに対して大きく責任を感じるのも、また私だ。

 

 

父親には休みがある。

 

私の夫はサラリーマンだ。とはいえ、1年365日1日24時間、寝食を忘れて仕事をしているわけではない。休日があり、出社時間・帰宅時間がある。

片働き家庭において、「仕事をすること=生活費を稼ぐこと=育児」とするならば、帰宅後のくつろぎの時間も休日も、ある意味仕事をする上で最低限必要な(そうして与えられた当然の)権利ととらえることもできる。

夫自身がどこまでオンオフを意識して生活しているかわからない。けれども、休日ごとに当たり前のように一人時間満喫している姿を見ていると、

「あぁ、父親には休みがあっていいなぁ」

と羨ましくもあり妬ましくもある、複雑な思いを抱いてしまう。

 

もっとも母親に休みがないわけではない。ないわけではないが、確実にあるわけでもない。決まった日にち時間にとれるわけでもない。

娘たちが寝ている間も、目の前にある家事を優先するか、つかの間の趣味の時間をとるか、睡眠をとるか・・・・・・そんな葛藤さえも生まれてしまう。

そうして、趣味の時間でさえも、気が付けば育児についてのブログを探し、クックパットで子供向けのレシピを検索している。

 

 

父親と母親の違い

 

父親と母親はやはり違うな、と何かにつけて思い知らされる。

自分が友人にプライベートで誘われるとき、娘が二人いることを知る友人は、当然私の娘ありきで予定を組む。もしくは、私の娘の予定や都合を考慮して、スケジュールを調整してくれる。友人自身に子供がいて、娘たちがいないと場が成り立たない場合もある。そうして、飲み会などは、そもそも誘われなかったりもする。

 

一方夫の場合はどうだろう。妻である私が専業主婦であることも大きいのかもしれないが、夫の友人や上司は、忘年会やBBGなどのイベントを除いては、娘ありきで誘うことをしない。父親である夫が早く家に帰れるように、という配慮をすることもあまりないように思う。

 

実家での待遇も違う。

訪問頻度の違い、訪問人数の違い(私の実家へは基本私一人だが、夫の実家へは必ず私もついていくようにしている)、互いの両親の考え方・性格の違いもあるのだろうけれど。

私が実家でコーヒーを飲んで一息ついていると、私の父親(母親は何も言わない)はかなりの高確率で嫌味を言う。

けれども、夫の実家では、義理母は夫が何時間もソファーで居眠りをしていても、決して何も言わない。(もっとも、私も滞在中は娘たちの相手しかしていないのだけれど)

 

私の父親は、母親である私が極端に楽をすることをあまり良しとしない。

一方、夫の母親は、父親である夫休日どんなに一人時間を満喫し日中どんなに居眠りをしようとも、夫をとがめることはしない。むしろ、日頃疲れているのだから、といたわりの言葉をかける。

 

夫だけではない、私の父親や義理母などの身近な人間の、何気ない言動を見てみるにつけ、「家事育児は社会的に評価されにくい」

「仕事のほうが家事育児より価値がある」という固定観念を再確認させられているような気分になる。

 

もしかしたら、そんな小さな違和感やモヤモヤの積み重ねが、日々のイライラのハードルを下げる手助けをしてしまっているのかもしれない。