日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

食べたいものを作るのか、食べてもらえるものを作るのか

自分の食べたいものを作る母

私の母親は料理が得意だ。手際もよく、一時間も使わずてきぱきと3~4品ほど作る。味も保証されているし、持ち合わせている料理のレパートリーも豊富だ。

けれども一方で、子供が好むメニューの多様や、子供の好き嫌いに合わせて調理方法や盛り付けを工夫するなどの努力は好まなかったように思う。もっと言えば、同居している父方の祖母に対してさえ(食のこだわりが強い人で、年齢も関係しているのかもしれないが、生もののすし、ハムなどの加工肉、練り製品全般を受け付けない)、特別な配慮(祖母にだけ別メニューを作るなどの)はしていなかった。祖母の食べられそうなメニューももちろんそろえつつ、食べられない素材は避けて食べればよいというスタンスだった。

 

後に母から聞いたのだが、母の料理の基本姿勢は「自分が食べたいものを作る」というものだったようだ。思い出してみると、父も時折母の料理に(味付けではなく、メニューそのものに)小言を言うことがあった。けれども、母は専業主婦ではあったものの、もともとの性格が幸いして??か、そんな父のストレートな言動に対しても特別気に病むことはなかった。「だったら食べなくていいよ!!」と言ってのけることもあったぐらいだ。

そのおかげか、母は自分の料理が丸々手を付けられずに残されてることに対して、特別心を動かされることはなかったように思う。

もっとも、私たち子どもが小さかった頃はそれなりに心を配っていたのかもしれない。けれども、表現は悪いが「子供に媚びるような」気配りはしていなかったように思う。

 

 

食にこだわりがないと主張する夫

以前こんな記事を書いた。

ponnsuke.hatenablog.comb

夫は食にこだわりがない。けれども、食材や味付けには好き嫌いがある。矛盾しているように私は思えるのだが、夫自身はそうは思っていないようだ。好き嫌いはあるものの、よっぽどひどい味付けでない限りは料理に全く手をつけなかったり、一口二口箸をつけただけで残すといったことはまずしない。

 

 

私は料理自体は嫌いではない。いやむしろ好きなほうだと思う。けれども、自分のペースで好きなものを、思いつくままに作れる状況などの様々な前提条件が揃ったうえでの”好き”であって、家族一人一人の好みや健康管理、お財布事情や時間の縛りなどの制限があっての料理にたいして、単純に好きと言えるのかろうか??と問われると・・・・・・微妙なところだろう。(もっとも、そんな好き気ままに料理を楽しむことができる子育て中の母親など、まずいないのだろうけれども)

 

 

私は、母の料理スタンスを基本としつつも、割り切って好き勝手に料理をすることに違和感を覚えてしまう。

だからこそ、自分の都合や好みを優先して、苦手だろうなと想像しながらも、残されることを想定しつつチャレンジすることもあっても、常に罪悪感がついてまわる。自分の食の好み、冷蔵庫に残った食材の組み合わせ、調理工程の簡単さ・・・・・・理由はどうであれ、相手が好んで食べないだろうな、と容易に想像できる料理を、私は頻繁に食卓に登場させることができない。

それ故、「自分が食べたいものを作るのか、相手に食べてもらえるものを作るのか・・・・・・」どちらに転んでも、私はどうにもすっきりしない。

 

 

食育としての毎日の食事~”娘たちに食べてもらえるものを作るのか、食べてもらいたいものを作るのか・・・・・・”

娘たちに料理を作る時、どういった姿勢で献立を考えるのが正しいのだろうか??

”娘たちに食べてもらえるものを作るのか、食べてもらいたいものを作るのか・・・・・・”

 

もちろん、正しい答えなどないのだろう。けれども、好ましい答えというものは、育児書やネットなどのたくさんの情報の中から多数決を取れば、おのずと出てくるはずだ。

 

栄養バランスが整った”食べてもらいたいもの”を作って(もっと言えば、そんな料理を娘自ら食べたい!!と積極的に思ってもらえること)、そうしてそれを完食してもらうこと。

 

これが、私にとっての一つの理想であり正解だ。けれども、現実はそう簡単にはいかない。

努力と工夫で「食べてもらえるもの」を地道に増やしていくことが一番の正攻法なのだと頭ではわかはいる。いるけれども、現実はそんなうまい具合に事は運んではいかない。

 

 

娘たちの食事への心のハードルの下げ方

もっともらしいことを書いてはみたものの、上の娘の偏食や食べムラなどにずっと悩まされ続けいる私にとって、上の娘との食事の時間は、正直に言うと単純に楽しいだけの時間ではない。幸い、下の娘は何でも食べてくれているのでとても助かってはいるのだけれども。

 

身近にいる夫に食の関心が薄いこと。娘にとても甘いこと。頼りにしている母親の楽観的な性格(対娘ではなく、対孫であるという甘さも手伝って)などなど。理由は様々だが、私だけが日々一人で空回りしている状態だ。

 

 

もっと言ってしまえば、「娘の正しくない食生活が心配で仕方がない」という素直な気持ちだけではなく、「何かあった時に(生活習慣病や、肥満などの極端な体形変化)、一番に責められ責任を追及されるのは自分なのだから」という、非常に自己中心的でいやらしい考え方も、正直大きいように思う。

上の娘の朝食の介助はもっぱら夫の担当だ。そこで夫は、娘の好きなメニューしか出さない。(基本料理はしないので、トーストやシリアルなどが多く、野菜を積極的に食させる習慣がない。おかずも何種類か作りおいているものの、娘の好きそうな食材を選んでお皿に盛りつけているだけだ)

 

時間に追われている夫は、娘が「栄養の有無にかかわらずおなかの足しになる何か」を、その場その場で食べれば良しと考えているきらいがある。けれども私は、「栄養のある何かを」コンスタントに食べてもらいたいと思っている・・・・・・

 

けれども、きっと娘の心や体に何かが起こったら・・・・・・医師や保健師から注意と指導を受けるのは夫ではなく私だろう。

 

だからこそ、まわりからの「まいっか」や「食べてくれればいいんじゃない」という耳障りの良い言葉につど流されながらも、日々悶々としてしまう。

 

もしかしたら、夫や母親のように、もっと割り切った考え方が無意識にできるならば、精神衛生上私にとっても娘たちにとってもよいのかもしれない。けれども、頭ではわかっていても、なかなかそれを実行することが私にはできない。