日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

セクハラについて、思うことあれこれ

ここ最近、政治家・官僚などの女性問題でメディアが賑わっている。

特別、セクハラ問題について、色々考えることがあったので、少し文章にしてみた。

 

まず前提としてセクハラは、とても卑劣で決して許される行為ではない。

けれども、そもそもの話として、「セクハラとは、言葉や行為の内容そのものが問題なのではなく、受け手(被害者側)の感じ方の問題である」という解釈で話を進めてしまうことに、私はとても違和感を感じている。

そうして、その大前提に違和感を感じるからこそ、セクハラをなくすことはとても難しい事であると、私は思えてならない。

 

 

セクハラをセクハラとみなさないことを、潔い、かっこよい、とみなす価値観

 

メンタルが強い事は、社会人としての評価に非常にプラスに働く。仕事そのものだけではなく、人間として「よい事」であると認識する人が多いだろう。そうして、あらゆる物事に寛容な姿勢を見せられることも、また世間的には「よい事」とされる。

 

時折、セクハラ・パワハラ・いじめなどの困難に遭遇した際、それらに耐え続けたこと、スルーし続けたことを、ある種の武勇伝として語る人間がいる。

そうして、根本的な問題の解決には至らなかったものの(加害者側が改心する、または会社を辞めるなど)、強いメンタルや、寛容な心を持っていたために、「気にならなかった」り「気にしなかった」ことで、「メンタル的なダメージ」を結果受けることがなかったことを、「かっこよい」とみなす人間も、一定数いる。

 

そのような価値観を持つことは、間違ってはいない。

いないのだけれども、被害者・弱者からしてみれば、とても危うい価値観でもあるように思う。

 

なぜなら、「我慢したり、右から左に受け流せないあなたが悪い」という極端な反論の余地を加害者側(時に傍観者側や、一部の被害者からも)与えてしまう可能性があるからだ。

 

セクハラを繰り返したり、黙認する人間の中には、「セクハラを許される・許す」ことは、「人間としての度量を見せる、見せられる」という意味で、一社会人として「よい事」であると認識している人間も一定数いるように、私は思う。

 

それ故、能力や発信力がある人間が「私も同じ経験をしたけれども、気にならなかったわよ」と発信してしまうことで、能力や発信力がない人間が声を上げづらい状況を作ってしまう危険性が増してしまうように、私には思えてならない。

 

発言の自由、報道の自由は確かにある。言われた言葉、された行為に対してどう感じるかも自由だ。だからこそ、ことセクハラなどのハラスメントの問題になると明らかに悪であるにもかかわらず、賛否両論出てしまうのではないだろうか??

 

 

ニートラップ的な仕事の交渉術を、暗黙の了解的に是としている社会

 

そしてもう一つ、セクハラを語るうえで気になるワードがある。ハニートラップという言葉だ。

 

ニートラップ(英語: Honey Trap)とは、女性スパイが対象男性を誘惑し、性的関係を利用して懐柔するか、これを相手の弱みとして脅迫し、機密情報を要求する諜報活動で、人的諜報ヒューミント(英語: Humint、Human intelligenceの略)の一種。また、隙を見せた標的をその場で殺害することもある。ただし、必ずしも女性スパイが仕掛けるものとは限らず、東ドイツ国家保安省(シュタージ)のロミオ諜報員のように、男性スパイによって対象となる女性を罠にかけることもある。こういった要素から、色仕掛けによる諜報活動といえる。

 

Wikipediaより。

一般論として、女性が仕事をするうえで(女性本人が意図しているか否かは別として)「ハニートラップ的な仕事の交渉術を、暗黙の了解的に是としている」事実は無視できないのではないか、と私は思っている。

 

枕営業という言葉もある。そこまで露骨ではないにしろ、若い女性を前では、饒舌になり、無防備にもなる男性心理を利用する世渡り術や交渉術を、「効率的である」という理由で、会社側や、当の女性自身が積極的に取り入れている事実。

 

性的な意味だけではない。母性や包容力、優しさなどを理由に、女性を積極的に採用する職業もあるという事実。

 

一方で、その事実に不満や疑問を持ちながらも、具体的な解決策を設けることが難しいという事実。

 

そんな矛盾した心理的葛藤が女性自身、そうして周囲の男性の中にもあるからこそ、セクハラを擁護する意見が紛れ込む余地が生まれて知っているように思う。

 

 

抽象的で要領を得ない文章だったと思う。

けれども、皆さんの意見を聞いてみたい。