役割分担として、家事・育児と仕事と分け合うこと
何度も書いているが、私は専業主婦である。
だからこそ、家事育児は私の仕事だと思っている。
けれどもその一方で、夫が家にいる時間(夫の出社前と帰宅後、そうして休日)は、もっと主体的に家事育児をしてほしいと思っている自分がいる。
もっとも、夫なりには家事・育児を積極的にやっているつもりなのだろう。けれども、家の中で自分が主体的に中・長期的な目線を持って動いていると、夫のその場限りの家事・育児に対して、「もっとこうしてほしい」という欲求がむずむずと頭をもたげてしまう。そうして、そんな気持ちを抑えることがどうしてもできなくなってしまう。
夫の休日における家事と育児
これも繰り返しになるが、夫は自分の仕事が休みの日には、ほぼ毎回最低でも約半日の自分だけの一人時間を持つことを当然の権利だと思っている。一方の私は、休日にワンオペ育児を強いられることに、違和感と苛立ちを感じている。
私にとっての休日のワンオペ育児は、「サービス残業」つまり本来だったらする必要のないワンオペ育児という「しんどさ」を時に味合わなければいけないという、少しの不安を常にはらんでいる。もちろん娘たちと一緒に過ごす時間はとても楽しい。けれども、純粋に楽しいだけかと問われると・・・・・・。
一方で、夫にとっての休日はどうだろうか。おそらく彼にとっての家族サービス(家事や育児をしている)の時間もまた、純粋に楽しいだけの時間ではないように、私には映ってしまう。(隙をついては、一人で外出したがるなどの夫の何気ない小さな言動の一つ一つが、私にそう思わせる)
このお互いの感覚のズレが、日々のイライラを生んでいるのだろう。
私は夫に「主体的な家事と育児」を求め、夫は夫で私に対して平日と変わらぬ感覚で「主体的な家事と育児」を求めている・・・・・・
もっとも、夫としてはそのような意識は毛頭ないのかもしれない。
けれども、一人時間を意識的に、そうして休日のたびに確保し、ほんのちょっとした隙間時間にどこででも居眠りをする。そうして、家事と育児を無意識のうちにえり好みをしている。
そんな夫の姿を見ていると、「自分は動かない、動けない、動けないことを仕方のないことだと許容している」=「相手=私に対して主体的に家事と育児をすることを求めている」と私はどうしても受け止めてしまいたくなる。
もっとも、この考え方の癖は直すべき悪癖のひとつなのだろう。けれども「この考え方の癖は、私だけの問題なのだろうか??」と言う疑問が常に頭の中にあるせいか(夫が主体的に家事と育児をしていない事は理由はどうであれ事実であるため)、なかなか素直に自分の気持ちを切り替えることが出来ない。
役割分担として、家事・育児と仕事を分け合うということ
ケースバイケースなのだろうけれど、家事・育児と仕事の分担の仕方について、一方が仕事をしていない場合、大まかに以下の三つのパターンに分けられるように思う。
A,家事・育児と仕事を、完全に分け合う。仕事を担当している人間は、自分が休日であっても家にいても、決して家事・育児はしない。
B,基本方針としては、家事・育児はそれぞれで分け合う。ただし、仕事を担当している人間は、自分が休日であっても、家事・育児を主体的に行う。
C,B同様基本方針としては、家事・育児はそれぞれで分け合う。ただし、仕事を担当している人間は、自分が休日であり、かつ自分の体調や都合がついた場合のみ、気が付いた範囲で(もしくはパートナーにお願い等された時など)家事・育児を行う。
私にとっての役割分担に対する意識の基本はAでありたいと思っている。けれども、自分の能力やその時々の精神状態などを鑑みると、かなりの頻度でBを求めたいという心情にどうしてもなってしまう。
一方、夫にとってのそれはBを理想としながらのCであり、時と場合によりAにならざる得ないというのが現状のようだ。(夫の言い分としては、気力と体力と能力がついていかないゆえのAなのだろうと思うけれども)
相手の状況、自分が置かれている条件次第で「仕方がない」と思えるボーダーラインが違ってくる私
夫が仕事の時間、出社前、帰宅後の忙しい時間、目に見えて疲労困憊しているときは、私は素直に「仕方がない」とあきらめることができる。けれども、夫が一人時間を楽しんでいる時間、ソファーで居眠りをしている時間、一人時間の影響で帰宅後ひどく疲れているときなどは、単純に「仕方がない」と私はあきらめることができない。(本音を言えば、出社前や帰宅後も、気力と体力に余裕がありそうなのであればもっと積極的に動いて欲しいと思うときもあるのだけれど。私ありきの家事と育児に対し、手放しで助かったありがとう!!と言えないときも、正直あるため)
その一方で、日々娘たちと接していると、「母親は常にニコニコの太陽であるべきだ(ありたいと思う)」と言う考え方が日に何度も頭をめぐり、反省と後悔を繰り返しているせいか、夫に対しても「もっと寛容に、おおらかな気持ちで接するべきなのでは??」という疑問もまた頭の中をしばしば過ることがある。
だからこそ、素直な自分の心の声と、「こうあるべき(ありたい)」という理想像との狭間で、もやもやとしてしまうのだろう。
自分の心に素直になりたい。けれども、そうすると母親としてダメになってしまうような気がする・・・・・・そんな思い込みが、自分で自分を苦しめているのか知れない。