日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。

適度に家事の手を抜くことの難しさ

私にとっての家事

私は家事が好きなほうだと思う。とはいえ、疲れているとき、体調がすぐれないとき、娘たちの機嫌が悪いときの家事はしんどいし、好きではない。もっと欲を言えば、夫がくつろいでいるときの(家事に無関心でいるときの)家事も、はっきりと好きとは言い難いところだ。

 

けれども私にとって、適度に家事の手を抜くことは難しいことだ。

もっとも、私の家事は決して完ぺきではない。部屋の収納は中途半端で雑然としているし、娘たちの洋服が収まった引き出しの中は常にぐちゃぐちゃ。服はあふれ、箪笥の上に積み上げられている。

料理も同じだ。お菓子、パンなど手作りにはこだわらない。めんつゆは市販品を使うようになったし、冷凍の餃子も冷凍庫に常備するようになった。

 

とは言え、私にとっての最低限の家事(主に掃除と洗濯において)の基準は、夫や私の両親のそれよりも高い。それ故、自分で自分の首を絞めているのでは??と思うことは多い。

 

私がしんどさを訴えると、夫は積極的に手を出さない代わりに「家事の手抜き」を推奨しようとする。

けれども、私がどんなに 適度に手を抜こうとしても、その適度の度合いには夫婦間で温度差がある。そのため、夫の優しさのつもりの「適当に手を抜いたら??」が、私にとっての優しさにはならないときがある。

 

 

家事に関してズボラな母の影響

繰り返しになるが、私の母は専業主婦だ。

料理はとても得意で、市販品やレトルト、半調理品をあまり好まない。コストパフォーマンスと健康を考え、なんでも手作りを基本としている。

その一方で、掃除・片付けはとても苦手だ。キッチンの流し台やダイニングテーブルの上は、朝食時のお皿が夕方までそのままであったりといった光景がざらにある。

洗濯は嫌いではないようだが、好きでもない。まめに洗濯機を回すことはしないし、洗濯機の中に脱水の終わった洗濯物が半日以上放置されていても平気だ。洗濯に対するきめ細かさ(色移りや毛玉防止への気配りなど)もあまりない。

 

 

時折、こう言う人がいる。

「毎日掃除や洗濯をしなくたって、人は死なない。食事だって、一日三食ちゃんとしたものをきっちり食べなくたって、病気にはならない」

 

 

けれども私は思う。確かに死ぬことはないかもしれない。けれども、そんな状態を不快に思う人はいるだろうし、それら(毎日の炊事洗濯、そして掃除)を怠ったことで生じる不都合も十分にあるのでは??と。

 

汚い話だが(そうしてとても恥ずかしい話でもあるのだが)、いたみかけた料理の残ったお皿が、日常的にテーブルの上にそのまま放置されていたり。

床に落ちた食べ物(パンくずやご飯粒、柑橘類の種など)がそのまま放置されていたり。

ゴキブリとの遭遇率が高かったり。

取り込まれた洗濯物が、ほこりをかぶりかけた状態でソファーに常時放置されていたり。

靴下の片割れが常に行方不明だったり。

洗濯済みのお気に入りの洋服に染みが残ったままだったり。 

 

子供時代もそうだ。学校への提出物のプリントに醤油の輪染みがついていたり。

給食当番のエプロンのアイロンがけがあまく、微妙にしわが残っていたり。 

 

そういったことに、私はとても敏感だった。学校でも恥ずかしい思いをたくさんした。そういった理由で、友人を家に招き入れることに抵抗もあった。

 

私は、最大限家事の手を抜いたことによって生じる不都合をとてもよく知っているのだ。だからこそ、適度に家事の手を抜くことがとても難しいことのように思えてならない。そうして、怖いなとも思ってしまう。日々の積み重ねが、ちょっとした気の緩みがきっかけで一気にガラガラと崩れていくような、そんなイメージだ。

 

母の良いところ(料理)はお手本として。

 母の悪いところ(掃除・洗濯)は反面教師として。

それが私の家事基準の一つになっているように思う。

 

 

お金という解決方法

もっとも、一番手っ取り早い解決策は最新家電の購入と、外注だろう。けれども、私が遣り繰りできるお金が、夫の裁量で決まっている我が家の家計システムでは、簡単な方法ではない。

自分の独身時代の貯金という方法もなきにしもあらずだが、無職の自分にはとてもハードルが高い選択肢だ。

また、自分の専業主婦という立場も大きい。母親の影響もあり、「もったいない」という意識がどうしても先行してしまう。 

 

 

夫に気付いてほしいと思うこと

もう一つの方法としては、やはり一番身近にいる夫に手伝ってもらうことだろう。

夫は夫なりに、家事を積極的にしている。けれども、当事者意識が薄いな、と思うことが多々ある。

それは、休日など、私がするだろうことを見越して行動をしているからだ。というのも、夫は趣味の一人時間のために、朝と夕方家を空けることが多々ある。当然、朝の一通りの家事(ゴミ捨て、食器の片づけ、朝食の準備等)や夕食作りは物理的にできない。その時間家を空けるということは、自分はする必要がないと思っているからだろう。その発想自体に、私は強い違和感を抱いてしまう。いくら妻が専業主婦とはいえ、小さい子供が二人もいる、そうして自分は休日なのだ。妻と自分は対等な関係だと思っているのならば、妻に仕事を押し付けて自分だけ遊びに出かけるのは、アンフェアではないのか、と。

 

 

あえて家事をやらないという選択

家事に対してある程度の完成度を求めてしまう私にとって、夫がやらないかもしれないという不安を抱えながら、あえて家事の手を抜く、やらないという選択肢をとることにも少し抵抗がある。

もし、夫が気が付いてやってくれなかったら??やるのは自分だ。やらずに、不快な思いをするのも自分だ。不便な思いをするのも自分だ。

言えばやってくれるのかもしれない。けれども、言わずにやるというその気持ち、心意気を、私は夫に求めているのだと思う。だからこそ、ストレートに言葉に出してお願いをすることに、私は抵抗を感じてしまう。

 

 

いつか友人に「我慢して自分でやらずにさ、旦那が出かける前とか、帰ってきた時とかに、ちゃんと口で言えばいいんだよ。掃除してから出かけて、とか。帰ったら夕食作ってよとか。それかさ、何にもやらない。旦那が帰ってきても何もしないの」とアドバイスをされたことがある。

けれども、もし私が夫の立場だったらすごく嫌だろうな、と想像してしまい、なかなかこのアドバイスも実行することができない。

 

 

もし私が、ネットのどこかでこんな愚痴をこぼしたらたちどころに「デモデモダッテ」と揶揄されるのだろう。自分が欲しいのは、結局夫が変わってくれる魔法の言葉なのだ。けれども、そんな魔法はこの世には存在しない。私が変わらなければダメなのだ。頭ではわかっている。けれども、私の悪い考え方の癖が邪魔をする。

 

このまま我慢をするか。

自分の意思を相手に感情的にならずに伝える努力をするか。

 

中途半端に我慢をため込んで、小出しに不満をこぼすのは、非常にもったいないなとも思う。いやらしい表現だが、相手に貸しを作っている状態が、不満をこぼすことでその貸しがチャラになってしまうような気がするからだ。

笑顔で我慢を続けても、その貸しが帰ってくる保証もないのだけれど。どうせ我慢をするのならば、笑顔で我慢をし続けることに、私は多少の美徳意識を持っている。

もしかしたら、そんな偏った考え方にこだわっていることが、そもそもの諸悪の根源なのかもしれない。