日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

ワンオペ育児について、思うことあれこれ

最近立て続けに、ワンオペ育児についての記事を読む機会があった。

 

one-mam.hatenablog.com

miho1010.hatenadiary.jp

 

上記の記事には、コメントを残させていただいた。

その繰り返しになるのだけれど、この「ワンオペ育児」の問題には、「家事・育児」が父親からも、そうして当事者からの母親からも(意識、無意識関係なく)軽く見られがちなこと。そうして、その「辛さ、しんどさ」の基準がなく曖昧であること、が大きく影響しているのかな、と私は思っている。

 

 

特別「ワンオペ育児の意味とママの現状」の中で触れている、

>ただ、今このワンオペ育児という言葉を用いて問題とされているのは、「共働きの家庭」でのことなんだそう。

と言うフレーズと、この問題が語られるときの「極端に過敏な子供を持つ母親の、地獄の様な育児生活」ばかりが一人歩きのようにクローズアップされがちな点(当然と言えば当然なのだけれど)に、色々考えされられてしまった。

 

 

曖昧な育児のしんどさ

私はとても恵まれた環境にいる。にもかかわらず、核家族であり夫がサラリーマンでもある我が家では、必然と一日の中で「ワンオペ育児」にならざる得ない状況がどうしても起こりうる。

けれども、辛い・しんどいとどんなに思っていても、実生活の中では、なかなか友人や母親に愚痴をこぼしても伝わりづらかったり、伝えること自体がはばかられたりと言ったことが多々ある。

理由はいくつかあるが、大きな理由は二つ。一つは、やはり実家が近くにあり日々頼っていることへの負い目(罪悪感)。そうしてもう一つは、我が娘たちの育児が「楽でもないが、地獄でもない」ことだろう。

 

以前話題になったムーニーのCMのような慌ただしさ、忙しなさを経験していないと「ワンオペ育児はしんどい」 といいにくいような空気感の様なものが、ネットの世界にはあるように、私は思う。

そうして、そのしんどさを感じるか否かは、母親や子供の能力、気質、相性によって見事に違ってくる。それゆえ、その「しんどさ」は第三者には理解されにくい。

だからこそ、「ワンオペ育児」問題には、賛成意見ばかりではなく、賛否両論沸き起こってしまうのではないだろうか。 

 

 

 何をもって「育児」なのか。

常々疑問に思うのだけれど、どこまでが育児なのだろうか??

娘たちが寝ている間は育児ではないのか??

機嫌よく一人遊びをしていたり、テレビを見ている時間は育児ではないのだろうか??自分も一緒に入って、一緒に食べる、入浴の時間は??食事の時間は??

 

おそらく、自分のペースを乱され、自分の思い通りにならないことは、心のどこかで「育児」と私はカウントしているのだと思う。

いつ起きるかわからない昼寝の時間も。

いつ集中力が途切れて私へ手助けを求めたり、文句を言いだすかわからない、一人遊びの時間も。

そうして、寝かしつけをしそのまま一緒の布団で寝ている時間も。

娘たちと同じ空間にいて、かつ母親という役割から解放されない時間は、どんなに自分の手が空いていようとも「自分だけの自由時間」として存分に楽しむことが、私にはどうしてもできない。(もっとも、子供を産んだ時点で、母親という役割は自分が死ぬまで続くのだけれど。)

 

けれども、夫はそうは思っていない。おむつを替えたり、トイレに付き添ったり。食事のサポートをしたり。具体的な何かだけが「育児」だと思っているのでは??と疑問に思わせる言動が多々ある。

このギャップは大きい。

 

 

「家事・育児」と「仕事」どちらが大変か??

比べることなど決してできないのだろうけれど、時折ネットでは話題になるテーマだ。

とはいえ、社会全体として、どこか「家事・育児」が「仕事」よりも軽んじられがちであるように、私は思えてならない。理由は以下のとおりだ。

 

  • 仕事をしていないと「ワンオペ育児」としてカウントされないこと。
  • ワンオペ育児問題がクローズアップされるようになったのが、ここ数年の出来事であること。(母親が家事・育児を一手に担う「ワンオペ育児」は、私達の母親達の時代にもあったはずだ)
  • 多くの母親にとって、「育児」に関しては基本ずぶの素人であること。
  • 家事に関しても、その能力に幅がありすぎて、正しく評価するすることが難しいこと。
  •  例え家事を外注したとしても、発注先である保育士やハウスキーパーの給与というのは決して高くないこと。(職業に貴賤はないとはいえ、ある意味、彼ら・彼女らの給与が低いことが家事・育児に対する社会的な評価につながっている側面があること)

 

「ワンオペ育児」が一部の人間に理解されない背景には、そんな社会の認識があるように思う。

 

私自身、自分の「家事・育児」に自信がないこと、そうして「知識や技術」ではなくまず「実践と経験」だとも思っていることから、「家事・育児」は「できる・できない」の問題ではなく、「やる・やらない」のどちらかだとも思っている。だからこそ、夫が主体的に「家事・育児」をしないのは、「やる気の問題」であると思っている部分もある。

 

それゆえ、夫に「家事・育児」を求めることへのハードルが低くなりがちだ。

もし、私のイメージしそうして実践している「家事・育児」がより専門性の高いものだったら・・・・・・

自分の「家事・育児」誇りを持つことによって、逆に夫に対して積極的に「家事・育児」を求める回数が減るのかもしれない。そうして、夫のする「家事・育児」に対し、もっと感謝することができるようになるのかもしれない。

 

 

蛇足:家の中で「家事・育児」をして思うこと

家の中は誘惑がいっぱいだ。TVにネット。本。甘いもの。暖かいコーヒー。ゆったりくつろげるソファー。いつでも横になれる布団。そうして、家庭育児の特権として、それらの息抜きが身近にあるからこそ、余裕のある育児ができるのだ、と私が自身が思い込んでいる。一方で、私の夫もまた、そう思っているのではないか??と思われる言動をしばし見せる。

 

けれども、なかなか自分のタイミングでそれらを楽しむことは、私にはとても難しい。

テレビをつければ、上の娘から「この番組はつまらない。録画のアニメが見たい!!」と文句を言われ。ネットをのぞこうとすれば、下の娘が騒ぎ出し抱っこをせがみ。本を読もうとすれば、ふざけあう娘たちに破られそうになり・・・・・・

 

テレビなどの虚構の世界の子育て風景を見ていると、私自身が今現在実感している「慌ただしさ、忙しなさ、だらしなさ、切羽詰まった感」のようなぐちゃっとした生々しい感じが、とてもきれい描かれすぎているように思う。(プロの女優・俳優と、出来の良い子役が演じる姿なのだから、当然なのだけれど)

そうして、それが普通の「親子の風景」だと私の頭が思い込んでいるのかもしれない。

 

 

ママ友と話していた時こんなことをつぶやいたら、大きな共感を得たことを思い出した。

「よその子って、すごいしっかりしているように見えるよね」

「たまにさ、人の家をこっそり24時間覗き見したくならない??ふだん、みんなどんな風に過ごしてるかとかさ」

 

普通なんて存在しないのだろう。けれども、娘たちと日々接していると、「平均的な発達具合」という話題はとても身近だ。

だからこそ、「普通はワンオペ育児でも大変には思わない。」という思い込みに縛られてしまうのかもしれない。

 

 

 

個人的には、「ワンオペ育児はしんどい」もっと言えば、「ワンオペ育児じゃなくったって、家事・育児の両立はしんどい」ぐらいの認識が、もっと広まればよいのにな、と思っている。