日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。

「楽しい」はずのものを「楽しめない」ことへの罪悪感

子育ての理想と現実

 

私は紆余曲折ありながらも、運よく、可愛い娘を二人も授かることができた。

私にとって、二人の娘はとても特別な存在だ。二人の娘のことを、とても可愛いと心から思うことができる。姿かたちが、と言う意味だけでなく、その存在自体をとても愛おしいと思える。

 

私は、結婚前から子供が好きだった。だから、と言うべきか。「子供を生みたい」と自然に、何の違和感もなく思うことができた。

とは言え、当時の私は身近にそうしてつぶさに赤ちゃんの成長を見る環境にはなかった。そんな私にっとっての「可愛い赤ちゃん」「可愛らしい子供」は、街中で見かける一時の姿であり、友人達の歳の離れた兄弟と接したときの外行きの姿でしかない。

そのため、子供がいる生活は「楽しい」ものであり、「楽しい」ものであるべきだ、と単純に思っていた。

もっともそれは、現実の、今自分が体験しているリアルな子育ての実態を知らなかったからだなのだけれども。

 

 

私が想像していた子供がいる生活は、今思うととても偏っていたように思う。

私が想像していた、世界。そうして、私が理想とする世界のなかでは、子供も母親も常に穏やかに笑っている。もっと欲を言えば、テレビなどのフィクションの世界で見るような、物分りの良い子供と、小奇麗でいつもニコニコしている母親が織りなす「楽しい」毎日である。

 

子供はわがままを言わない。言っても、演技の範囲内で抑制がきいている。トイレの失敗もほとんどせず、四六時中おっぱいも飲まない。食事中はきちんと椅子に座り、極端な好き嫌いもせず、出された食事に文句も言わない。

そうして、生活感があるようでないような、整然としたリビングには、子供の作品がセンスよく飾られている。

 

もしも私が、そんなフィクションのような世界で子育てをしていたら・・・・・・

イライラすすことも少なく、感情だけで娘たちに怒ってしまうこともないのではないか、そんな妄想めいた想像をしてしまうことが、私には時折ある。

 

大好きな娘たちとの時間。楽しいはずの時間。なのに気が付けば、イライラしている自分。疲れている自分。そうして、そんな自分に嫌気がさしている自分。

 その根っこにあるもの、それは「楽しい」はずの、「楽しむべき」はずの娘達との時間を、存分に楽しめない自分への罪悪感が関係しているのではないだろうか

 

 

「子供が好き」と「子供達だけと過ごす時間が好き」は違う。

 

とは言え、私ほどではないにしろ、子供を育てることのリアルを覚悟せず子供を持ち、「あれ??」「どうして??」と思い悩む母親は多いのではないだろうか、と個人的には思う。

子育てを題材にしたエッセイ漫画やブログは巷にあふれている。今自分が置かれているあたふたとした子育ての現場の生の声を知る機会は大いにあったはずだ。けれども、妊娠中の私は、妊娠や出産の心配ばかりで、その先の子育てをリアルに想像することにあまり熱心ではなかった。

もしかしたら、あえて目を背けていた部分もあったのかもしれないけれども。

 

 

 

「子供にとって適切な環境」=「自分にとって心地よい環境」ではない。

 

私が実感する子育ての想定外。その一番が「子供たちだけと過ごす時間を純粋に心の底から常に楽しめないこと」だ。

もっと言えば、「娘達にとって良い環境(理想的と思われる環境)」=「自分にとって心地よいと思える環境」でないことだ。

 

仕事をしていない自分にとって、日々家事と育児に追われている、わけではない。にもかかわらず、毎日が楽しくない。充実しているという実感がない。楽しめない理由。

それは自堕落な自分にとって、娘達の手本にならなければならない「ちゃんとした母親」の姿を目指すことが、とても疲れることだからだ。

もっとも、今現在の私はまったく「ちゃんとした母親」ではない。だからこそ、「ちゃんとした母親」へのあこがれと焦り、そうしてそこからくる後ろめたさは人一倍強いように思う。

 

  • 一人で好きなだけ寝ていたい。
  • 食事中テレビを見たい。
  • 自分の見たい番組を優先してみたい。
  • 自分の好きなメニューを、自分の好きなタイミングで、自分のペースで、温かいうちに食べたい。
  • 自分の趣味に集中したい。途中で中断されたくない。(テレビ、ネット、読書)

 

けれども、今の私には、そんな本音をぶつけそうして共感してくれる人間が身近にいない。恵まれている環境にあるがゆえに、逆に自分の心の奥底にあるどす黒い本音を開放する場所が少ないからだ。

こうして、ネット上で匿名で発信することが、数少ない自分のストレス発散になっている。ありがたいことだ。

 

 

恵まれている環境にあるからこそ、自分は「幸せ」であるべきだと思うこと。

 

幼稚園のママ友の中には、私の夫を「イクメン」と評してくれる人がいる。けれども、寝食を共にしている私にとってみれば、色々と思うところはあり、手放しで喜べない自分もいる。

実家が近く協力的な両親を見て、羨ましがるママ友もいる。けれども、孫にはとことん甘く、乱れた生活習慣を持つ両親からの悪影響を考えると、素直に喜べない自分もいる。

 

そうして、何度も繰り返し夫のことを他人から褒められ、実家が近いことを羨ましがられていると、「自分は幸せなのだ」「幸せに思わなければいけない」「幸せに思えない自分はおかしいのではないか」と悶々としてしまうのだ。

 

 

 

 こうして文章にすると、いつも不思議に思うことがある。家事・育児に対しては、手も抜くしいい加減でいられるのに、こうして執拗に自己分析し、自分を責めてしまうことに手を抜けないのはなぜなのだろうか、と。

今の私に必要なこと。

それは、何事にももっと肩の力を抜くこと。

そうして、もっと考えないようにすること、なのかもしれない。