日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。

病気や障害が理由でなければ「できない」「難しい」は許されないということ

「あなた、脳みそ腐ってるんじゃないの??」

 

このセリフは私がかつて会社員時代、直属の上司に直背に言われたセリフだ。

このセリフの後、その上司からは「普通に考えればわかるでしょ!!」と吐き捨てられた。

 

 

 

当時の私は入社半年未満。新しくできた支社のために新規に採用された私はほぼ新卒扱いの採用だった。

このセリフを言われたのは今から10年以上前だ。その経緯は今でも克明に覚えている。仕事の基本である「報告・連絡・相談」を怠たったことがそもそもの原因だった。私が上司から言われていたとある業務の取り組み手順に関して、自分の都合の良いように解釈し手順を上司の許可なく入れ替えたことが原因だ。(もしかしたら、上司は私に手順を必ず守るように念押ししていたのかもしれないが、私の記憶にはない)

詳細は省くが、当初は自分としては理にかなった方法だと思っていた。正しい手順に対し、そうしなければならない理由を私は事前に上司から説明を受けていなかったからだ。

当然、何らかの不具合が起こったがために上司は厳しく指摘をしたのだろう。けれども、最後の最後まで(退社するまで)不具合の具体的な内容を教えてもらうことはなかった。

 

 

もともとの自己肯定感低さも手伝って、上司への信頼関係もない状況でのこのセリフは、自分に非があったにも関わず、私には非常に堪えた。

そうして、自分を責める気持ちと、上司を責める気持ちがないまぜになり、もやもやとし気持ちだけが残った。結果、私は素直に反省しきれなかった。 

 

その後、職場が変わり仕事も変わっても同じ思考を繰り返すこととなった。

自分に非があることは十分に認識できていたにもかかわらず、上司や同僚への非(上記のミスで言えば、上司は私のミスに気づいていながら、あえてすぐには指摘をしてはくれなかったこと。その手順を守らないことで起きることの重大性を最初から最後まで説明してくれなかったこと)を非難する理由を持ち出しては、自分を自己正当化していたように思う。

 

正直、今でもこの上司のセリフが状況的に「正当性があるか否か」わからないでいる。わからないままなのは、自分の自己肯定感が当時と変わらず、ずっと低いままだからだろう。

 

 

この記事の冒頭のエピソードを書くにあたって、色々思い悩んだ。

けれども、とある二つのブログ記事を読んだことで、どうしても自分の気持ちを吐き出し、整理したくなったので書くことを決めた。

tyoshiki.hatenadiary.com

nyaaat.hatenablog.com

 

ちなみに、私は発達障害ではない。

けれども、発達障害を疑って病院を受診したことはある。結論を言えば検査までには至らず、いまだ診断は不明だ。ネットなどの自己診断では「疑いあり」と出る程度である。 

 一方で、会社員時代の私は、「仕事ができない人間」という評価に悩み苦しむ毎日だった。

病気でもなければ、障害でもない私は、「人並みにできない」ことに常にコンプレックスを持っていた。

誇れるような学歴もなく、音楽や芸術に優れているわけでもない。運動も苦手だ。「キャリア」と言えるような職歴もない。おまけに仕事もできない。

そんな「低スペック」な人間であった私は、その事実を自分で受け入れ、かつ周囲の人間に受け入れてもらう手段の一つとして、「他人に従順な人間」という職場での立ち位置を自然と獲得していった。

けれども、「他人に従順である」ことで受けるデメリットも数多く経験することにもなった。

時に都合よく人に使われ、人として好ましくない扱いも受けた。暴言めいたセリフも幾度となく吐かれた。

そのため、もともと低かった自己肯定感はさらに低くなっていった。

けれども、わたしはそのような扱いをされることを「仕方のない事」だとおもっていた。

なぜなら、私は健常者(あえてしこう表現します)であり、健康な人間(日常生活に支障がないほどに)だったからだ。

健常者であり、健康な「普通の人間」は、こと職場では他人に著しい迷惑をかけてはいけない、と私は社会で学んだからだ。

 

 

職場では「能力がない」人間は、暴言を吐かれたり、雑な扱いをされても仕方がないという考え方

当然異論もあるだろうが、私自身の実体験としては、積極的にしろ消極的にしろ、このような考え方を持つことを「仕方のない事」としてとらえている人は、世間的には多数派なのではと思っている。

実際に当事者として暴言を吐いたり、雑な扱をしていなくとも、傍観者としてそういう場面に遭遇したとした場合、あえて声を上げ問題定義したりする人は少ないのではと思うからだ。

前々回書いた記事(セクハラといじめ。変らなければいけないのは、被害者か加害者か。 - 日々、思うこと、考えること。)の中でも触れたが、いじめはいじめた側にも原因があるという考え方と同じ構図があるからだと思う。

 

 

「変わり者の高スペックな両親」と「変わり者の低スペックな私」

いつも思うのだが、発達障害を好意的にとらえる文章に頻繁に登場し、引用されるのは「能力のある、高スペックな人間」の例である。

いや、発達障害にも限らない。いわゆる「自己啓発本」の類に出てくる「自己肯定感の低い人間」の分析の際にも、「上司や職場が変わったことで、実は優秀だった(数字として結果が出たり、給与や待遇面で評価を得ている)ことが後に判明する、実は能力のある人間」の例がしばし登場する。

 

けれども私は、いつも違和感を感じていた。

なぜなら、自分には「実は・・・・・・」となる経験が、極端に少ないからだ。

それ故、自分のことに当てはめて読むことができず、アドバイスが時に他人事のように感じてしまう。

 

私の両親は、少し変わりものだ。

けれども、勉強はでき、仕事もできた。協調性がなく、時折空気に合わない発言(的を得てはいる)をすることで幾度となくトラブルに巻き込まれ(時には巻き起こした)たらしいが、「能力があり優秀」であったがために、今現在まで大きな問題を抱えることなく平穏な社会人生活を送ってこれている。

そんな私の両親は、私の抱えている「生きづらさ」に対して、非常に鈍感だった。

 

そんな両親を見ていると

「出る杭は打たれる」とはよく言うけれども「よい方向に出すぎた杭は、どんなに空気が読めない変わり者であっても、あまり強くは打たれない」のだな、とつくづく思う。

 

そうして、そんな「能力があり、結果を出してがゆえに、社会にうまく溶け込んでいる」ように見える人間には、私のような「能力がなく、結果を出すこともできないがゆえに、社会にうまく溶け込めない人間」の鬱屈した気持ちは、なかなか理解されないのだな、と様々な書籍やブログなどを読むにつけ、改めて思い知らされるのだ。

 

何もない私にとっては、書籍を出している人間は当然のこと、発信力のあるブログを書いている人間もまた成功者であると、映るからだ。

 

これも自己肯定感が低いが故の、極度のマイナス思考の影響なのだろうか??