人はなぜ、子供に不寛容になってしまうのか??
昨日の記事に続き、とても興味深い記事を見つけた。
騒音問題(子供の足音)で悩んでいたが、ある日肩書のある友人夫婦が3人の子供にてこずって姿を目の当たりにしてからというもの、子供の足音が気にならなくなったという話だ。
この話のみそは、「子育てにてこずっている友人の社会的ステータスが高かった」という点なのではないだろうか??と私は思っている。
「知識と技術が備わった親」が「がんばっている」からこそ許される「子供の騒がしさ」
公共の場所での子供の騒音問題で問題視されるのが「親の態度」だ。
いかに親が「申し訳なさそうに」振舞うかによって、親子が周囲に与える心象は大きく変わるからだ。
けれども、重要なのは、親が「申し訳なさそうに」振舞うことだけではない。
「知識と技術が備わった親」が「正しい知識と技術をもってして」「可能な限り手を尽くして」なお「手に負えない場合」という状況が、目に見えてわかることなのではないだろうか。
無知そうな親(主観的ではあるがあえて)が、スマートホンを与えるなどでごまかしたり、怒鳴り散らすなどして子供を黙らせていたとしたらどうだろうか??
おそらく、どんなに親が申し訳なさそうにしていても、この親子に対して良い印象を多くの人が抱かないのではないだろうか??
「育児の難しさ」を体感しなければ、「子供に寛容になる」ことは難しい
そうして、育児の難しさを理解するためには、「知識と技術が備わっている」であろう「社会的ステータスの高い親」が「育児に難しさを感じている姿」を目の当たりにすることではないだろうか??
けれども現実には、「社会的ステータスの高い親」は、それゆえ「お金も人脈も知識も技術」もあるがために、「育児の難しさを感じている姿」を公共の場で見せることは少ない。
そのため、知識と技術があり、かつ正しく適切な対処をすれば、多くの子供が「たちまち大人しくなる」と多くの人間は思っている。
ある面で、それは事実なのだろう。
けれども、その「知識と技術」そうして「正しく適切な対処」はとてもハードルが高いものだ、と私は思う。
- 学術的にも、臨床的にも正しい知識と技術の習得
- 親の心身の健康
- 親の体力
- 親の忍耐力
- 経済的な条件
- 子供の心身の健康
- 親と子供の相性
等など、様々な条件をクリアしなければ、子供に対する「正しく適切な対処」は難しい事のように、私は思う。
「育児は誰にでもできる簡単なことだ」と思われていること
子供を持たない人間だけではない。子供を持っていても育児にタッチしていなかったり、とても育てやすい子供であった場合、「育児の難しさ」を体感する機会は、現代社会においてとても少ない。
人は言うだろう。
かつては、三人以上の子供を母親が一人で働きながら(農作業など)育てていた。それが普通だった、と。
けれども、かつては、躾という名の暴力や、育児放棄も日常的に行われていた。
高水準の教育も求められていなかった。公的な場所に子供を連れて行く機会も少なかっただろう。子供の数も多く、二世帯三世帯家族も当たり前だった。近所づきあいも濃厚だった。人手はたくさんあったのだ。
そんな、かつての「一見簡単そうな育児」と、現代の「高度で複雑な育児」をごっちゃにしているからこそ、「育児は誰でもできる簡単なこと」と多くの人が錯覚してしまっているのではないだろうか??と、私は思う。
余談
件のエピソードだが、もし例の友人夫婦が社会的地位が低く子供が一人だけだったらどうだったらろう・・・・・・と、つい意地悪な想像をしてしまった。