日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

子供用のリードと、先輩育児経験者の子育て美談

 最近、下の娘と一緒に買い物をしているとき、強く思うことがある。

「子供用リードが欲しい!!」と。

そんな折に、目に留まったのが、二つのまとめとエントリーだ。

 


 

目次

 

性格が正反対の上の娘と下の娘

我が家の2歳の下の娘は、とても行動的だ。年長の上の娘にはなかった、パワフルでダイナミックな動きで、日々私を翻弄してくれる。


私が子供用リードの存在を初めて知ったのは、ちょうど下の娘を妊娠したあたりだった。

妊娠初期はつわり、中期は上の娘の赤ちゃん返りに困り果て。後期は大きなおなかに苦しみながらも、上の娘が抱っこが大好きだったこともあり、当時の私は子供用リードの必要性を、肌で感じる機会は少なかった。

 

賛否両論ある中での当時の私の立ち位置は、「つわりなどで体調がすぐれないとき、おなかが大きくなって走るのがしんどいときなどは、リードも必要だよね」というぐらいの曖昧なものだったのだ。


けれども、今私の中で子供用リードに対する考え方は大きく変わりつつある。

それは

「子供用リードは、子供の安全のためにも、なくてはならないものである」

「子供用リードがもっと普及されてほしい」

「後ろ指さされることなく、日常的に使える世の中であるべきだ」というものだ。

 



下の娘は、歩くのがとても好きだ。抱っこしていても、暴れて激しく体をくねらせ下に降りようとする。手を繋いでいても、隙あらば手を振りほどこうとする。

いや、手を繋いている、というより、もはや手首をつかんで引きづっているような状態だ。それでも、一瞬の隙をついて、私の手から離れようとする。

時に、おんぶひもでおぶわれることも嫌がり、無理やり背中に押し込むと、力任せに背中から出ようともする。
買い物の際は、特定のショッピングカート(キャラクターモノ)以外は全身で拒否反応を示すようになってしまった。しかも、特定のお店にしかない、お手伝いカート(子供用の小さなショッピングカート)を見つけると、それしか目に入らなくなってしまう。

 

 

 大人が自分一人しかいいない状況の中、買い物を無事に済ませようとするとなると、子供用リードなしでは、色々と無理があるように私には思えるのだけれども、賛否両論あるということは、その必要性が世間一般には理解されていないということになる。

 

 

娘をおいかける私への周囲からの視線

自意識過剰かもしれないが、心なしか、必死に娘を追いかける私へ周囲の視線は冷たい。迷惑そうな顔を露骨に向ける人も多い。

 

とは言え、中にはそんな必死な私の姿を見て、ほほえましそうに表情を緩める人もいるにいる。

全力でカートに乗るのを拒絶しているのを見て、「大変そうね」と声をかけてくれる人。

会計の一瞬のすきを見て逃げ出す娘を見て、「大丈夫ですか??」と声をかけてくれるレジの人。

 

 

けれども、当然のことながら、どんなに私が子供相手に四苦八苦しようとも、誰もレジの順番を変わってはくれないし、荷物を持ってもくれない。

 

当たり前のことではあるけれども、そんな周囲の反応を目の当たりにしてしまうと、「子供が手を繋いでくれなくて大変」は、理解され難い大変さなのだな、とつくづく思い知らされる。

間違っても、手を差し伸べる対象ではないのだ。

もっとも、親としての責任は当然問われる。外の世界は、子供が社会のルールを学ぶ場でもある。手を差し伸べるべきだ、とは思わない。

けれども現実は、心と体が疲れてくると、ほんの一瞬でも他人の優しさを期待してしまう自分がいる。そうして、そんな自分の心の浅ましさを思い知らされ、自己嫌悪の日々だ。

 

 

先輩育児経験者の子育て美談

一方で、実家の近くに住んでいるおかげで、外出先で見知った顔の先輩子育て経験者(主に幼馴染や同級生の母親、自分の母親の知り合い)に、声をかけられることも多い。

そうして、彼らは決まって、活発ですぐに手を振りほどいて走り出す下の娘を前に、

 

「あらまぁ、大変ね。でも、大変なのも今のうちよ」

「子供とずっといられるのは今だけよ」

「うちの孫も、すぐ走り出して大変なのよね」

と、気軽に声をかけてくれる。

 

彼女たちの言葉には他意はない。純粋に私を励ましてくれているだけだ。

けれども、「大変に思っている今を生きる私」には、彼女たちの言葉の裏に「大変なのはよい事だ」という価値観の存在を裏読みしてしまい、何とも言えない気持ちにもなってしまう。

 

間違っても彼女たちから有益なアドバイスとして「子供用リード」を勧められることはない。

もっとも、彼女たちの時代は、まだ「子供用リード」などの便利グッズはなかったのかもしれない。今でも、私の住んでいる地域では、まだまだ「子供用リード」の普及率は低い。知識としてなかったのなら仕方のないことだ。

 

とは言え、知識として知っている人も少なからずいるはずだ。

けれども、ネットやメディアで大々的にそうして好意的に紹介し、それらの使用を勧める人は、比較的に若い現役ママ世代であるように思う。

ということは、先輩育児経験者の多くは、知識として知っていても、その必要性を感じていない人がほとんどなのだろう。

考えてみれば、「子供用リード」なくしても、問題なく(事件・事故に巻き込まれることなく)子育てを終えた母親のほうが大半なのだから、当然といえば当然である。

 

子供がおとなしかった。

物分かりがよかった。

同居の親がいたので預けることができた。

大変だったったが、我慢できないほどではなかった。

若さと体力があったので、余裕を持って対応できた。

などなど、理由はいくらでも想像できる。

「大変ではなかった」「大変ではあったけれども、どうにかなった」人たちにとっては、「子供用リード」はやはり必要のないもの、だと判断されるのだろう。

 

 

子供用リードへの、嫌悪感の理由と不思議

子供用リードに関して、子供の安全のための便利用品であるにもかかわらず、なぜ批判意見が後を絶たないのだろうか、と私は不思議でならない。

私自身、下の娘が生まれる前は積極的に賛成の立場ではなかったが、反対の意見でもなかった。必要であると思えるのならば、積極的に使うべきだ。とも思ってもいた。

 

けれども、いざ自分がそれを積極的に必要とする立場に立った時、高いハードルを感じてしまい、そんな自分自身とても驚いている。

地方都市故というべきか、身近に日常的に子供用リードを使っている親子を私は見たことがない。もしかしたら、祭りやイベント、連休中の行楽地ではいたのかもしれないが、意識してみたことはなかった。年の近い先輩ママからの経験談も聞いたことがない。

 

自分の親も、どんなに私が下の娘に手を焼いている姿を目にしていても子供用リードを勧めることは決してしない。(以前話題にはしていたので、その存在自体は知っている)

 

犬のようだ、という意見もある。

けれども、子供の命がかかっているのだ。

子供用リードをつけるのもNG。

けれども、目を離したすきに、子供が事件、事故に巻き込まれるのも当然NG。

子供が自分の目の前に飛び出してきて、進路をふさぐのももちろんNG。

というのでは、ひどく矛盾しているのではないか、私には思えてならない。