自分の心と体に忠実に「ノー」と言うということ。
私は、人に物事を頼まれた時、自分の気分や好き嫌いでは「ノー」が言えない性格だ。
「できるけれど、したくない。だからしない。」
という選択が、気持ちよくできない。
そう、全く「ノー」と言えないわけではないのだけれど。
こと相手が自分の夫や自分の家族の場合、相手を不快にさせることなく、自分が感情的になることもなく、相手に「ノー」と言うことにとても苦手意識がある。
もっと言えば、上下関係のはっきりした目上の他人(会社の上司や先輩)相手だと、「物理的に、能力的にできない」ことでないかぎり、うまくその場を取り繕って断ることができない。
もっと言えば、相手に「ノー」と伝えたことで、相手が自分に対してマイナスな感情を抱くことに、とても敏感に反応してしまう。
人から怒られたり、非難されたり、嫌われたりすることに、過剰に反応してしまうのだ。
これまでの人生の中で経験してきた、様々な人間関係のトラブルから学んできた、私の防衛本能なのだと思う。
人の悪意を目の当たりにするいくつかの体験を身をもって経験してしまったがために、必要以上に相手の感情に固執してしまう自分がいる。
おまけに、自分が相手に物事を頼むときは、相手の状況と自分の状況を天秤にかけ、自分が下手に出て「お願い」してしまいがちだ。
自分が相手に「お願い」しているとき、それは自分が疲れていたり、困ったりしているときでもある。
すでに自分の心身がマイナスな状態でスタートしているので、(やろうと思えば)できる相手に「ノー」と言われると、とても困るし、とても傷つく。時と場合によっては、怒りすらわく。
もっとも、
相手ができるか、できないか。
できそうか、できそうでないか。
そんな判断を自分が勝手にすること自体が間違ってるのだろうけれども。
おまけに、相手からのしぶしぶの「イエス」にも過剰に反応してしまう。
やりたくないけれど、しぶしぶやってあげる。
という「上から目線」な相手の態度が垣間見られて、とて不愉快に感じてしまうからだ。
我ながら、とても矛盾しているな、とは思う。
自分も、断れない代わりに、しぶしぶな態度で「イエス」と言っているのだから。まさにブーメランだ。
卵が先か、鶏が先か。自分の言動や思考が自己中心的であるからこそ、相手の言動が気になるのだろうか。