「できない」が存在しない世界。
世の中には、ハウツー本があふれている。ライフハックも、経験者の知恵や工夫もネットにあふれている。ITや工業技術も発達している。医療も発達している。
だから、というべきか。
「できない」とあきらめて「逃げる」「避ける」という選択肢をしてはいけないような社会の雰囲気を私は感じる。
人の10倍100倍の努力や我慢の先に「できる」が存在するのであれば、それが正解だ、と人は言う。
できないこと、実現不可能なことは、絶対にある。
あるけれども、「できない」が通用しないことも、ある。
できなくはないけれども、人の何倍もの時間を要して初めて「できる」こともたくさんある。
いつも思う「できる」人は「できない」が理解できないのだ。
子供を産んだけれども、育てられない。うまく育てられない、は通用しない。
専業主婦(主婦)だけれども、家事・育児ができない。一人りで滞りなく回せない。は通用しない。
母親だけれども、朝早く起きられない。は通用しない。
沢山の通用しないことが、世の中にはあふれている。欠点や短所は、克服すべきことだという、正論であふれている。
私は、「できないこと」「にがてなこと」「人よりたくさんの時間がかかること」がたくさんあることを自覚している。
私は人に「優しい」と言われることがある。人の言いなりになりすぎると言われることがある。
なぜ私は人に優しくするのか。なぜ私は人の言いなりになるのか。
それは、私の「できないこと」「苦手なこと」を大目に見てもらうためだ。ただ純粋に優しいのではない。弱いのでもない。
そこには打算がある。自分の欠点を見逃してもらいたいと思う下心がある。
けれども現実は違う。
どんなに優しくしても。他人を許しても。必ずしも人に優しく接してはくれない。許してもくれない。
かつての会社員時代の、自分の欠点や失敗を棚に上げ私をこき下ろした上司に、泣きながら反論する夢をいまだに見る。
自分の中で、気持ちの整理ができていない証拠だろう。
今朝起きて涙を流しているところを隣で一緒に寝ている娘に指摘された。
上手くごまかすことができなかった。