専業主婦が欲しいのは、「暇」ではなく「自由」
自分が欲しいのは「暇な時間」ではなく「自由な時間」なのだな、と最近つくづく思う。
「暇であること」と「自由であることは」イコールではない。
私は「暇だ」と言われることに、過剰反応してしまう傾向がある。その言葉の裏には「暇でいいね。羨ましいよ」「暇でいいね。幸せだね」「暇でいいね。自由にできて」というフレーズが見えるからだ。
先日も、父親に「毎日○○ちゃん(下の娘)と昼間何してるんだ。暇だろう?」と言われ、ものすごくカチンときた。
けれども、
「じゃあ、○○ちゃんをお父さん預けて仕事するよ。だって、お父さん○○ちゃんと四六時中一緒にいても、暇なんでしょう??」(父は私に早く働いてほしいと思っている)
と返すとすぐに黙った。
なぜなら、下の娘は魔の2歳児。一人遊びもするが、「一人遊び=大人にとってのいたずら」なので、うっかり目を離せない。
ちなみに最近のお気に入りのフレーズは「一緒に遊ぼお(にこっっ)」だ。
娘が起きている間、私たち大人が四六時中娘に張り付いているわけでは決してない。
暇な時間はある、でも自由はないのだ。
娘の世話をする父にとってもそうだ。
娘がそばにいては、自分の好きなこと(パソコンとゴルフ)を自分の好きなタイミングで、自分の満足いく時間にできない。
パソコンは下の娘が邪魔をして故障させたり設定を変えたりするし、ゴルフは危ないので好きにクラブを振れない。
父も、娘の私から見れば一見「暇」そうに見える。
仕事は週2回夕方の4時間。
基本家事は母親に丸投げ。
どんなにシンクに汚れたお皿が山積みになっていても、意地でも自分では洗わない。どんなに床が汚くても掃除はしない。
唯一自分の母親である祖母の洗濯と昼食の準備だけは自ら進んでやっている。おそらく、父の中では「家事」の範疇ではなく、「介護」の範疇なのだろう。だから、家事らしい家事はやっていない。
一応、祖母の介護は、息子である父担当になっている。母は基本ノータッチだ。と言いたいところだが、朝食・昼食の用意は母の担当だし、父が仕事を含めた外出中の留守番は母の仕事だ。
祖母は一人でトイレにも行けるし食べることもできる。
お茶が欲しいとか、トイレの場所を教えて欲しい(痴呆が入っているのですぐ忘れる)なのどお願いごともあるにはあるが、介護らしい介護は、傍目にはないように見える。
けれども、 転倒やもろもろの事故が怖いので、祖母を一人家に残し留守にすることはできない。
ゴルフのコースは勿論のこと、長時間の買い物も夜の飲み会も、母の都合がつかないとできない。
週3日のデイサービスの日は、祖母の帰宅時間に家に必ずいなければいけないという、行動の制約もある。
父は「自由」に外出ができないことが、強いストレスなのだと言う。
私は勝手に父と自分とは、立場が少し似ているなと思っている。
「自由な時間」もっと言えば「自由に外出できる時間」がないという点で。
だから、私視点で暇そうな父がストレスをためている姿を見ると、少し安心する。自分だけではないのだな、と。
「暇」だというと、羨ましがられる。けれども、その暇な時間は、自分の好きなことを好きなだけできる「自由な時間」では決してない。
私は学生時代1か月間だけだが、変わったバイトをしていた。平時は平均一桁しか来場者がいない、地元の偉人をたたえる記念館の受付のバイトだ。
受付以外にも、ちょこちょこ文字入力などの仕事はあったけれども、ノルマもなく当然やりがいも面白味もなく。
「暇であること」はイコール「楽しいこと」ではないということを、当時私は学んだのだ。
「専業主婦は暇だ」と人が言う時、「専業主婦には自由な時間がたくさんある」というニュアンスが見え隠れする。
だからこそ、「暇だ」という言葉に、私は過剰に反応してしまうのだろう。
私が欲しいのは「暇」ではない。「自由」なのだ。
もっとも、働く父親や働く母親にも自由があるわけではない。けれども、彼らは決して「暇だね」とは言われない。