母親の体調が崩れた時、夫である父親に求められるもの。
下の娘の体調も、少しだけ持ち直したようだ。相変わらず食欲がないが、卵焼きとバナナを一口だけでも食べてくれて、少しほっとしている。
この一週間、体調不良と、外出できないストレスとの相乗効果で、親子ともども心身ともに疲れ切っていた。
やっとここ2、3日でお互いの体力が回復しつつあることもあり、イライラが言葉と態度に出す余裕が出てきてしまったらしい。反省だ。
子供たちと一緒に寝込んでいる最中、気を紛らわせるために「世の母親は、子供からもらって自分もインフルエンザになってしまったら、どうやって乗り越えているのだろう??」とネットで検索をした。
不思議なことに、「誰の助けも借りず(借りられず)我慢して育児や子供の看病をする母親のエピソード」ばかりが目についた。
当然だが、
「そもそもインフルエンザが移ると困るので、私はインフルエンザの子供の看病はしません」と言う母親の声を聞くことはない。
けれども一方で、
「インフルエンザを移されると困るので、私は別室で生活しています」とあっけらかんと語る父親の声や
「インフルエンザを移しては悪いので、親や義理の両親には頼れません」と何の疑いもなく語る母親の声はネットに溢れている。
世間一般では、
母親はインフルエンザを移されることを厭わず子供の看病するのが当たり前で、自分がインフルエンザになっても誰にも頼らず家事・育児をするのも当たり前。
父親と祖父母は インフルエンザを移されては困るので、子供の看病を積極的にしないのが当たり前で、母親がインフルエンザになっても、移されない程度にしか手伝わないのが当たり前。
なのかも知れない。
少なくとも、
「妻が体調不良の時は、夫は会社を休むか早退して家事・育児をしましょう。妻の看病をしましょう」
「娘が(嫁が)体調不良の時は、親は(義理の親は)積極的に孫の面倒をみましょう。家事も手伝いましょう」
という、私にはとも手耳障りがよく魅力的なアドバイスは、ネットの世界でも現実の世界でもあまり積極的には支持されない。
人による、環境によるからだろう。万人に向けられたアドバイスではない。ゆえに、大きな声で主張されることがないのだろうか。
この一週間、夫の仕事が休みの日が一日だけあった。休日の前日には、仕事を早退してくれもした。
けれども。だ。
「インフルエンザにかかってはまずい」
とのことから、夫に頼れる家事・育児が非常に限られており、正直心から
「家にいてくれて嬉しかった!!」
「おかげでゆっくり休めた!!」
と思えない自分がいた。
夫の、「できることはするよ」のスタンスは、本来とてもとてもてありがたいものだ。
けれども、心身ともに弱っているときの、「できること」では、私の心は満たされず、体も癒されない。
家にいる間夫がやってくれたことは、主に買い出しだ。
では、そのほかの家事・育児はどうだったろう。
生活スペースを分けていた(夫はリビング、私たち親子は2階の寝室)ので、起きて愚図る下の子供をあやすこともなく、熱が下がり元気になった上の娘の遊び相手になることもなく。
使用済みの食器はシンクにたまり。
使用済みのティッシュや空のコンビニ弁当、はがされたラッピングのフィルムはテーブルに置きっぱなし。
床は掃除されることなく、うっすらと埃が被り、ご飯粒やお菓子のカスがちらほら。
そんな中、夫はソファーで転寝。
夫の言い分としては「起きたらやろうと思った」のだろう。
見ているこっちが我慢ならず(小汚い場所でご飯を食べたくなかった)起こした行動の責任はあくまで自分だ。
掃除をし片づけをし、皿を洗ったのは、自分の意思だ。
すぐにやらない夫を責めるのはお門違いなのだろう。けれども、頭では理解できても、心が追いつかなかった。
自分の個人的な感情、こだわりを優先すべきか。
相手のやり方、生活習慣、気持ち、優しさを優先すべきか。
答えがないゆえに、自己肯定感が低く、意思表示が苦手な自分は、自分の気持ちに蓋をし、口を噤むことを無意識に選んでいた。
世間一般的に見ても、私の夫はやってくれているほうで、褒められこそすれ非難してはいけない。
そんな思いが頭を離れず、夫に一言物申したい気持ちと、余計な一言をぐっと飲み込み我慢しようとする気持ちの狭間で、今悶々としている。
夫の「ゆっくり休めたから、体が軽くなった」の一言が頭から離れない。その間、子供たちに邪魔されて一睡も出来なかった私は、素直に「良かったね」とは言えなかった。