日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

「言わなければ伝わらない」はお互い様。

ネットの相談サイトなどでの、夫婦間、恋人間、人間関係に関する悩みや愚痴のアドバイスでよく見聞きするのが、

  • 「相手は超能力者じゃない」
  • 「はっきりと言わないと伝わらない」
  • 「”察して欲しい”では伝わらない」
  • 「話し合いをしないことには始まらない」

などの、「話し合い」を促す回答だ。

「話し合いができない現状」に限らず、「自分の気持ちや要望を相手に伝えられない現状」が問題視される。

 

 

以前私は「話し合い」に関するこんな記事を書いている。

ponnsuke.hatenablog.com

 

とても疑問に思っていることがある。

そもそも人は、日本人は「話し合い」を人はそんなにも日常的にしているのだろうか、と。

「話し合い」とまではいかないまでも、日々のちょっとした要望や希望、不満を皆その都度感情を交えずに、日頃から口にできているのだろうか、と。

その「話し合い」は対等な関係性の上で成り立った「ちゃんと話し合い」になっているのだろうか、と。

 

 

「話し合い」を人がするとき。

自分の要望を聞いてもらうだけの場になっていないだろうか??

相手の要望を聞く耳を持ち合わせているのだろうか??

互いを対等の立場の人間としてみれているだろうか??

 

 

 

確かに「言わなければ伝わらない」は正論だ。

とは言え「言わなくても伝える方法」がないわけでない。

 

実際に「気持ちや要望を口にしなくとも、状況を見て察して欲しい」とのメッセージを行動で示すことは可能だ。

そうして、多くの人が、それらの言動を家庭で職場で日常的に行っている。 

 

身近な家事・育児に例えると、

  • 帰宅を意図的に遅らせる。
  • 家事を残したまま、私用で一人外出する。
  • 目の前の家事・育児に気付かないふりをする。
  • 気付いていても(すぐに)動かない。
  • 例え家事・育児をするように、妻に(夫に)声をかけられても、すぐに動かない。いつ行動を起こすのか明言しない。

ことで、「家事・育児をしたくない」との意思表示を、明確に相手に示すことが可能だ。

あえてはっきりと言葉にして

「僕は(私は)、今はやりたくありません!!」

と言わずとも、やる気のなさ、関心のなさは十分に伝えることができる。

そうしてその先にある「だから僕の(私の)気持ちを察して一人で動いてよ」とのメッセージを遠回しに発信することも可能だ。

 

少なくとも、 

  • 泣く子供を横目に、スマホに夢中になる。
  • 一人で遊びに出かけ、ご飯の時間、お風呂の時間に間に合うように帰宅しない。
  • 妻が(夫が)忙しく立ち働いていても、自分は決して動かない。「何をしたらいい??」と声もかけない。
  • ご飯の時間になっても、何も言わない。動くこともしない。
  • 朝起こして、一度目を覚ましても、なかなか布団から出てこない。

そんな姿を見て「今やろうと思った」「後でやろうと思った」「気が付かなかった」「何をすればよいのかわからなかった」とのメッセージを受け取ることはなかなかできないだろう。

それこそ超能力者でない限り。

  

一方で、相手が「しない」選択をした時、同時に自分も「しない」選択をすることは家事・育児においては特に難しい。

ゆえに、「気を利かせて」「相手に言われずとも」成り行き上仕方なく、自分が動かざる得ないのが現実だ。

結果、相手を一方的に悪者にできないが故に、余計に不満や苛立ちを腹に抱えることになる。

 

おそらく喧嘩覚悟で相手の機嫌を損ねるのを恐れずに、はっきりと「自分の気持ち」を伝えるのが、対等な関係を気付いていくための正解はあるのだろう。

 

けれども、

  • 不機嫌になる相手
  • 嫌な顔する相手
  • 要求されたレベルを下げることで責任を回避しようとする相手

に対し自分の気持ちを伝え、相手に代わってもらうためには、勇気だけではないそれなりの技術が必要なのでは、と個人的には思えてならない。

 

 

 

そもそも、私たち日本人には、日常的に対等な関係を保ちながらの「話し合い」の経験が、絶対的に少ないように思う。

 

二十数年前、私が学生の時に「ディベート」なるものが流行った。

けれども、そのディベートは、学校が、先生が作った環境と条件、ルールの上で初めて成り立つものでもあった。

先生抜きで、学校の外で、同じメンバーと議題で議論をしても、それはきっと「ディベート」にはならなかっただろう。

学校と言う特殊な場所で、先生と言う監視員がいるからこその「ディベート」であり「平等な話し合い」だったはずだ。

 

その一方で、家の中では「互いに話しやすい」環境や条件作りがとても難しい。無関係な立場の第三者の冷静な目もない。

だからこそ「言わずに察してもらいたい」と人は短絡的に思うのではないだろうか。

 

 

相手に「察してもらう」のを声を大にして期待するのは、今の世の中あまり歓迎されない。

けれども一方で、不機嫌な態度で、日々のちょっとした言動で、直接言わずとも相手に否定的なメッセージを送り続けることで、結果相手が「察する」のを待っている人、期待する人、存外いるように思う。

自覚、無自覚関係なく。

私だけでなく。