日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

自分がされて嫌なことは、相手にしない

私は娘達に、善悪の基準を伝える際「自分がされて嫌なことは、相手にしない」との表現を使う。

けれども、時折小1の上の娘から、「私は嫌じゃないよ」と反論される。

 

きっと正解は、

「自分がされて嫌なことは相手に、しない。相手がされて嫌かもしれないことも、相手にしない」

なのだろう。けれども、まだまだ小1の女の子には、相手をおもんばかって行動するのは難しい。

 

例え大人であっても、超能力者ではないのだから「相手がされて嫌だと思うかもしれないこと」を正確に理解、把握するのは不可能だ。

そこは、知識を増やし、沢山の経験を積み、想像力をたくましくするしかない。

と同時に、「自分がされて嫌なことは、ちゃんと相手に伝える」のが、自衛の手段の一つとしてとても大事になってくる。

 

けれども「自分がされて嫌なことを、ちゃんと相手に伝える」のは、場合によっては言うほど簡単ではない。場所を選び、言葉を選び、伝える相手を選ばなければ、相手を傷つけたり、不快にさせてしまう。

 

 

さて、少し前のエントリーでずっと気になっていた一文がある。

sourceone.hatenablog.com

自分がされて嫌なことは、相手にしてはならないから。この文言、良いことを言っているように見えますけど、実際どうなんでしょうね。攻撃されるのが嫌なら攻撃するなってことですよね。でも攻撃してくる人っていますよね。嫌なことを平気でしてくるわけですよね。自分、損してない?

 

確かに、「自分がされて嫌なことは、相手にしない」はお互いが同じ認識を持っていないと、成立しない。いや、成立しないわけではないが、一方的に自分だけがしんどくなる場合がある。

 

「自分はされて嫌だけれども、相手にはする」を意識無意識関係なく、している人は存外多い。

いわゆるダブルスタンダードではある。

とは言え、そういう考え方の方が、ある意味ストレスなく生きやすい、とも言えるかもしれない。

もっとも、「人として」それを自分が許容できるかどうかは別の話だけれども。

 

いじめの問題も、各種ハラスメントの問題も、「相手がどう思ったか」「相手がどう感じたか」との視点が絶対的に加害者側に欠けている。

きっと、「自分は絶対されないだろう」との思い込み、大前提があったうえでの「きっと自分が相手の立場だったら気にしないだろう」との思い込みも、大いに影響しているのではないだろうか??