とっさの時に出るもの。愛の鞭と、暴力の違い。
手を繋いでいた子供が、手を振り払い急に車道に飛び出そうとしたら、あなたはどうしますか??
下の娘は好奇心旺盛で、唐突に繋いだ私の手を力任せに振り払い走り出すことが今でもある。
私の場合、こういう非常事態でも手をあげることはない。
だが、力任せに娘の腕を引っ張り、感情的に怒鳴り散らしはする。
状況が状況だから、許されると思っている自分がいる。
頭では、力を込めずに手を掴んだ後、娘と目を合わせ声を荒げずに「危ないよ」と伝えればいいだけだとわかっていはいる。
分かってはいるが、非常事態に反射的に出た言動は「しょうがない」「許されるのでは」との甘えが自分にある。
件のエントリーのコメント欄には賛否両論、様々な意見が並んでいる。
凄惨な虐待事件のニュースを前に、多く人は「暴力は絶対ダメ」の大前提、共通認識を持っている。
であるにもかかわらず賛否両論が起る背景には、賛成側の
- 非常事態に反射的に出る言動は、コントロールできない。
- 「命に係わる危険」を教えるには、痛みを伴うのもやむ得ない。
- 事の重大性を教えるためには、子供に恐怖を印象付けたほうが良い。
との言い分があるからだ。
きっと、私がついやってしまう
「腕を力任せに引っ張り、感情的に娘を叱りつける」
行為も、事態を把握できていない当の娘本人にとって、事態を知らない第三者にとって、ただ感情をコントロールできず怒鳴り散らしているだけの母親に過ぎないのかもしれない。
自分の中で、とっさの時に出る言動はコントロールが効かないものとの甘えがある。だから仕方がないと思っている。
けれども、とっさの時こそ普段の行い、本来の人間性が出るとも言える。
いざという時でも、私が手を出ないのは、「普段から手を出すのを習慣としていないから」とも言えるからだ。
一方で、衝動的なものではない場合、理由があれば、あえて痛みや恐怖を与え、子供に危機感や善悪を教えたほうが良い、とする考え方もいまだ根強くある。
時と場合によるのだろうけれども、躾として「叩く」のを肯定する人は、老若男女問わずまだまだいるのが現状だ。
私の父も、どちらかというと、そういう考え方の人だ。
実際下の娘が危ないこと(一度口で叱られているにもかかわらず、笑いながら大人の反応を確かめるように繰り返す)をすると、あえて父は拳骨を振るう時が極まれ(数えるほど)にある。
もちろん、力は加減するし、その後私がすかさずフォローもする。父も私もきちんと口で説明もする。
もっとも、娘は父に拳骨をもらっても、また同じ危険ないたずらを繰り返す。
かと言って、私が口で言っただけでも、また同じ危険ないたずらを繰り返す。
朝の情報番組で、とある有名人がこんなニュアンスの持論を述べていた。
「僕だってね、悪いことをしたらお尻を叩くぐらいはしますよ。でもこんな(実際に自分の腕を優しくペチンと叩いて見せる)具合で。そこには愛があるし、自制が効いてる。ちゃんと口で説明もしますし」
罰を与える、痛みを教えるために「叩く躾」は昔からあって。
それらを見聞きし、子供の立場で体感し、結果「よかった」「正しい」と思っている人がいて。
「叩く躾」しか躾の方法を知らない人もいて。
親の立場で、「叩く躾」によって子供の言動が改善した成功体験を持っている人もいて。
口だけで説明しても伝わらなかった(伝えられなかった)経験を持っている人もいて。
きっと根気強く、ポイントを押さえれば叩かずとも子供には伝わるのかもしれないけれども。
それができない人が確実にいる。
だから「愛の鞭」という名の「叩く躾」はなくならないのかな、とちょっと考えてしまった。