誰かのために作る料理。自分のために作る料理。
夫は、今だ仕事が忙しく帰宅時間が遅い日が続いている。
仕事帰り上司から誘われ、そのまま帰宅途中に連絡もなく(連絡されても、すでに用意し終わって下手したら私は寝ているのだけれども)食事をして帰る日も、数えるほどだができた。
昨日も、上司とラーメンを食べて来たらしく、今朝もラップのかかった冷めた焼きサンマが、寂しく皿の上に乗ったままになっていた。
自分が作った料理が、手付かずでテーブルに残されている様は、とても哀愁がある。
私はサンマは食べないため(何度も、食べそびれている。落ち着いて食べられないため)、余計寂しい気持ちにもなった。
今度の土日も夫は仕事だが、仕事に区切りがつき、「もし行けるのであれば」ば土日のどちらかで友人と飲みに行きたいと相談という体の事後報告を受けた。
この「もし行けるのなら」が厄介で、夫いわく「俺のがなかったら適当にコンビニで買ってくるよ(だから僕の分は準備しなくてもいいよ)」との意味なのだが、夫がコンビニで買うと、お弁当プラス飲み物やカップラーメン、食後のデザートのアイスと結構な出費(とカロリー過多)になるため、あまり歓迎できない私がいる。
おまけに、例えそのお金が夫のお小遣いからの出費であっても、月末お小遣いが足りなくなればその分自分で下ろすのだ。私にとっては、全く喜ばしくない申し出である。
かと言って、食べるのか食べないのかわからない夫のために、肉料理や魚料理を一品追加したり、一皿料理(カレーや丼物、パスタなどの麺類)の量を増やしたり(翌日余らせて、最終的に翌日の朝食のみならずお昼でも食べる羽目になる。もしくは最悪捨てる)するのも、ちょっと気が進まない。
こんな些細なことで、割り切れずグジュグジュしてしまう自分が、嫌なだだなぁとつくづく思う。
私の母は、料理が好きで、おまけに得意だ。
その母のモットーは、
「基本、自分の食べたいものを作る。家族の調理方法、味付けなどの好き嫌いは無視。食材の好き嫌いに関しては、多少憂慮するが、絶対ではない。」
「家族が食べてくれるかもしれない範囲で、自分が食べたいものを作る。」
である。
そのため、私が娘達を連れて実家に行っても、娘達に媚びる(好みを優先するという意味で)料理を出さない。
親ではない、おばあちゃんの強みで「食べたくなければ食べなくていい」と言い切る。
だから、献立について悩まない。
一方の私は、そこまで母の様に強く出られない。
常に、「家族のための」「家族が好きそうな」「家族が満足してくれそうな」料理を作りがちだ。
だから、ときに料理が面倒くさくて、楽しくないと思えてしまう。
専業主婦であるがゆえに、料理の結果=家族の反応にアイデンティティーを見出してしまっているからだろう。
私の母も専業主婦だったが、今も昔もとても強気だ。夫である父に料理の文句(味付けの注文、嫌いな食材に対する文句)を、まるで屁とも思っていない。
羨ましい限りだ。
友人からも、母からも「自分が食べたいものを作ればいいんだよ」とアドバイスをされる。
けれども、そもそも論として「自分が食べたいもの」が正直分からなくなってきてしまっている自分に気が付く。
例え、食べたいもの、好きなものはあっても、その食べものを
- 自分のベストなタイミングで
- ゆっくり落ち着て
- 邪魔されずに
- 好きなだけ(娘達に、頂戴と言われないで)
- 楽しく
食べたいというわがままを捨てきれないせいか、そこにどうしてもこだわってしまう。
下の娘が幼稚園に通うようになり、やっと平日の昼食だけは自分のタイミングでゆっくり落ち着いて食べられるようにはなった。
だが、今度は「自分の食べたいもの」がわからず、ついついパンやインスタント麺に頼ってしまう。
もっと、「天丼」や「親子丼」などの、ちょっと手間がかかって、自分は好きだけれども娘たち(特に上の娘)からの受けの良くない料理があるはずなのに。
お金のことや作る手間を考えてしまい、選択肢が極端に狭まってしまっているのだろうか??
いやいや、このついつい食べてしまう料理も、立派に自分が食べたいものなのだろうけれども。