日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

つらい時に「具体的に助けてほしいことと、理由」を素直に言えない理由

はてなブックマークに気になるタイトルを見つけた。

anond.hatelabo.jp

 

私にとって、色々考えさせられる投稿だった。そうして、以下のようなコメントを残した。

 

>大袈裟かもだけど、「保護責任者遺棄罪」に似た感覚なのかな?あと、母親自身が「自分で何をして欲しいか言わない」赤ちゃんを相手にしているのに、なんで父親はその苦痛から逃れられるの?て言う疑問もあるのかも?

 

文字数の関係で、大きく内容を端折ってしまったので、改めて自分なりの感想を書いてみたいと思う。

 

 

大変そうにしている私に対して「何してほしい?」と夫に聞かれることに、大いに不満な私

 

「声に出さなければ伝わらない」は正論だ。

けれども、育児で心も体もしんどくていっぱいいっぱいな時、私だったら・・・・・・

「なぜ、苦しんでいる人間が、具体的に何をしてほしいか言葉にしなければいけないのか??」といった疑問が、まず一番の感想だった。

 

極論かもしれないが、例えるなら

"道端に人が倒れていました。けれども、その人は「助けてくれ」とは言いませんでした。だから助けませんでした。"

というシチュエーションでの行動が、「正しい」と評されているのと同じように受け取ってしまったからだ。そうして、私にはその行動がどうしても「正しい」行動とは思えない。それゆえの、大きな疑問なのだと思う。

 

 

日々「何をしてほしいのか具体的に口に出して言わない娘たち」と接していて

 

私は察することが苦手だ。正確には、「相手の求めていることを的確に理解して察し、行動すること」が苦手だ。

けれども、育児は「察すること」の連続だ。少なくとも、私はそう思う。まだしゃべらない下の娘はもちろんのこと、幼稚園に通い自分のしたいことしたくないこと何でも口に出して伝えることができる上の娘に対しても、そう思うことは多々ある。

 

一方で、父親である夫はどうだろう。

接している時間の絶対数が違うのだから当然といえば当然なのだけれど。いざとなったら「自分にはおっぱいがないから」「やっぱりママが一番だよね」「ほら!!ママの顔を見たら泣き止んだ!!」と言って、ポンと娘を私に渡そうとする夫を見ていると、「察する」まえに思考を簡単に停止できてしまう。(夫本人にしてみたら、意図してそうしているわけでは決してないのだろうけれども)

 

特別得意とはいいがたい「察すること」を娘たちと接するうえで求められる毎日。その隣で、夫は「察すること」をいつでも放棄できる。それが許される。

(実際は、キチンと察することができているわけではない。だからこそ、かんしゃくを起こされ、駄々をこねられ、泣きわめかれ・・・・・・ますます育児がしんどくなってしまうのだけれど。)

母親と父親では役割が違うのかもしれない。けれども、同じ二人の娘たちの親だ。夫にも「察すること」を自分と同様に求めることは、「親としての何か」を夫に求めることと同義なように、私には思えてならない。(ひどく抽象的で、分かりにくい表現だけれども)

 

いやらしい表現をしてしまえば、「同じ苦痛を味わってほしい」別の表現を使えば「自分と同じになってほしい(自分が求められていることを、母親としてこういう苦労があるということを、もっと夫に理解してほしい)」そんな気持ちが、心のどこかにあるのだと思う。

 

 

つらい時に「具体的に助けてほしいことと、理由」を言わない理由

 

今日もこんなことがあった。

夫の帰宅は8時過ぎ。娘たちはお風呂も終わり夕食も食べ終え、あとは歯を磨いて寝るだけ。寝る前の、少し浮足立ったようなテンションだった。

私はというと、娘たちとお風呂には入ったものの、自分の食事は食べ損ね、テーブルの上に冷めた料理の皿が手つかずで残ったまま。下の娘が邪魔をして、自分の食事どころではなかったので、娘たちの食事の後の後始末に追われていた。(皿洗い、床掃除などなど)

夫が防水タブレットを見ながらゆっくりと湯船につかっている間、夫の食事の準備をし、娘たちの歯磨きをし寝る準備へ。夫がお風呂から出てきたときには、下の娘はお座りの状態でおっぱいを飲み、上の娘は興奮して私の膝の上に載って私の体に抱き着き、私は不自然な体制を余儀なくされ悲鳴を上げていた。私は、娘たちが眠たいのだな、と「察して」娘たちを寝室へ連れ出した。

けれども、夫は無言でテーブルに座り食事をとり始めた。

 

そんな夫を見ていて、私はこのブックマークをふいに思い出していた。そうして、こう思ったのだ。

「あぁ、私は夫に気にかけてもらえるような、大切な存在ではないのだな」

「私もご飯を食べていないって、見ればわかるのに」

「ごめん、先にご飯もらうね。の一言でもあればなぁ・・・・・・」

けれども、当たり前のように自分だけご飯を食べ、私が耐えられず寝室に向かう姿を見ても、なんの優しい言葉もかけず。結局寝かしつけに失敗し(たったの30分だったけれど、空腹時に横になり寝るに寝られない状況はきつかった)、最終的には隣の部屋の夫に助けを求めに行っのだけれども、食器も洗わずに一人ソファーでくつろぐ夫を目にしてしまったら(ずっと騒いでいたから、寝かしつけに手こずっていたのはわかっていたはずなのに)、どっと疲れが出てしまった。

 

夫が当たり前のようにくつろぐ姿を見ていると、無気力感が襲い、言葉をかける気力がたちまち削げてしまったのだ。そうして、自分は夫に大事にされていない、むしろないがしろにされた、という被害者意識に支配されてしまった。

 

もし、夫が私で、私が娘たちだったら・・・・・・

しんどいといわなかったからと言って、具体的に何をしてほしいといわなかったからと言って、放っておくことはしなかったはずだ。

おかしな例えだと自分でも思う。けれども、いたわってもらえない自分が、とても可哀そうに思えてならなかった。

 

もっとも、夫は夫で、仕事で疲れていたから。自分では手が負えないから(おっぱいがないから)、という理由があるのだろう。

けれども、家にずっといるからと言ってわたしも疲れていない訳ではない。母親だからと言って(おっぱいがあるからと言って)、育児のすべてがすんなりいくわけではない。そんな育児のもろもろが、夫に理解されなかったことに、私はただただ悲しかった。常日ごろに、つらい、しんどいとちゃんと声を上げていたせいか、なおさらそう思ったのだ。

 

 

たまごが先か鶏が先か。

経験がないから、(寝かしつけなどに)苦手意識が生まれるのか。苦手意識があるから、経験が積めないのか。どちらにせよ、夫自身がどこかで我慢や努力をしてその負の連鎖を断ち切らない限り、今日のような光景は繰り返されるのだろうか。