女性が結婚・妊娠・出産を機に仕事を辞めるのもう一つの理由。
先日、「東京医科大学の女性一律原点問題」のニュースをテレビで夫と見ていた際、夫から女性差別を肯定するコメントがあった。
「だって、皆辞めてくよね、実際」
というのが夫の女性差別を肯定する理由のようだった。
夫にとっては、純粋に疑問だったようだ。特別残業が多いわけでも、責任のある仕事を任せられているわけでもない会社の女性社員たちが、結婚・妊娠・出産を機に次々と辞めていくことが。
「女性の社会進出」を語る際、フィーチャーされるのは「キャリアの断絶」である。「有能なキャリア女性が、妊娠・出産を機に仕事を辞めるのはもったいない」という理屈だ。
では、キャリアではない、ごく普通の一般女性の場合は、どうなのだろうか??
「キャリア」と呼べるほどの職歴のない人間にとって、「産後も確実に、賃労働に継続して就ける」以外に、どのようなメリットがあるのだろうか??
もちろん、家族の一員として、子供の将来を考えれば、「継続してお金を稼げる」ということは大変なメリットである。
けれども一方で、一個人として考えたらどうだろうか??
妻として、母親としてではない、個人の損得勘定だけで考えた時、必ずしも「仕事を続ける」ことだけが、「普通の女性」とって幸せなこととは限らないのではないだろうか??
目次
夫の実体験としての、辞めていく女性社員たち。
私はかつて夫と同じ会社で働いていた。お互いに結婚を意識したのをきっかけに、私が転職した形だ。
夫の会社はいわゆる同族企業である。企業規模も小さい。そんな環境の中、女性社員は
- 人間関係も濃密で、セクハラ・パワハラ・モラハラが、当時は黙認。
- 全員事務職に就き、年収は額面で300万を切る。
- 大幅な昇給は望めず、直属の上司が社長一族の関係者であったこともあって、昇格もない。
- 仕事を何年続けようとも、仕事の内容は変わらず、職務経歴書を埋めるような知識と技術が増えることもない。
- 産休・育休制度を利用した女性社員の数が極端に少なく、かつ取得後、正社員で戻ってきた事例がない。
のような条件で働いてる。
そんな環境下にあってか、先輩達は皆仕事にやりがいを感じておらず、プライベート重視の生活をしていた。
自分が結婚・妊娠・出産をして分かったこと。
私自身は、転職後の会社(結局事務職で採用された)では、産休・育休後も働くつもりでいた。面接時に、そういう話を会社側と確かにした。けれども実際には、諸々の事情で辞めざるを得なくなってしまった。
退職直後は非常に複雑な気持ちではあったが、産後夫からの十分サポートが物理的に難しいなかハードな子育てが始まってからは、「仕事を辞めてよかったのかな」と時折思えるように私はなった。
そうして、夫の会社の女性社員たちの心情も、なんとなく想像できるようになった。(あくまで想像なので、間違っている可能性もあるだろうけれども)
- 退社時間も早く、収入も夫より劣っている状況では、自分に家事・育児の負担が極端に偏るのは目に見えている。
- 仕事にやりがいを感じられず、今の仕事を継続するメリットがない。
- 経済的に自立できず、夫婦間の立場が不平等になりやすい。(働いていても、養ってもらっているような形になる)
- 万が一離婚した際の貧困生活が目に見えているため、離婚のハードルが高いままになる。
働き続けていても、輝けず、やりがいも感じられず、昇給・昇格も望めず、経済的に自立もできず。よっぽどその仕事が好きか、人間関係がよいかなどの好条件がそろっていない限り、「働き続けることが多くの女性の幸せにつながる」とはとても言い難いのでは、と私は思えてならない。
「働く女性は輝いていなければならない」
と多くの女性は思っている。
「生き生き働く女性に魅力を感じる」
という理由で共働きを希望する男性も多い。
では「嫌々、輝くことなく働く女性」の存在価値とは何なのだろうか??
もっとも、私の自虐的、被害妄想的な視点があるからこその意見ではあるのだけれども。
真のワークライフバランスとは
「マミートラックに乗せられる」という表現がある。キャリア女性が妊娠・出産を機に第一線から強制的に退かされることを言う。マミートラックの先で「やりがいのない、成長もできない仕事」をさせられることに嫌気がさし、多くの元キャリア女性が仕事を辞めていくことが問題視されている。
ライフを重視すればキャリアが失われる
キャリアを重視すればライフが失われる
ライフとキャリア両方を重視すれば、両方が中途半端になる
ライフとキャリアの両方が中途半端になることは、会社にも家族にも迷惑がかかることだ。と人は言う。
ライフとキャリアの真の両立は、ごくごく一部の生産性の高い仕事をしている、有能な人間のみが叶えられる絵空事なのか。
はたまた、ごくごく普通の人間にも現実可能な近未来なのか。
私の身近に理想的なモデル像がいないせいか、ついつい懐疑的になってしまう自分がいる。