日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

「働いていない人」にとっての「ケア労働」とは。

専業主婦は働いていないとされる。

この場合の働くとは「賃労働」を意味する。

家庭内において、家事や育児、介護などは賃金が発生しないため「働いている」とはみなされない。 

 

専業主婦が家庭内で担っているケア労働(家事や育児、介護など)を、素人の主婦が担った場合、当然賃金は発生しない。

けれども、家政婦やベビーシッターなどのプロがそれらを行えば、当然「対価としての賃金」が発生する。

 

 とは言え、専業主婦にとって、突き詰めてビジネスライクに考えるのであれば、

「衣食住が補償されている=イコール自分にかかる経費をケア労働の対価として、夫から支払われている」

と考えても良いのかもしれない。

 

 

時折、「もし専業主婦の仕事を年収に換算したら??」なる不毛な議論が起きる。

けれども、専業主婦の能力は千差万別だ。

夫や子供の資質や健康状態、にも大きく左右される。家が賃貸か否か。家の立地条件。部屋の間取り。部屋の数と広さの影響も大きい。

専業主婦に求められる「その家庭にとって必要なケア労働に対する」知識と技術を正当に評価することはとても難しいだろう。

 

 

専業主婦にまつわる、様々な記事や議論を目にするつくづく疑問に思う。

どうして私は、「専業主婦」「働いていない」「無職」などのワードに敏感に反応してしまうのだろうか??と。

 

毎日家の中でのんびり過ごしているわけではない。

掃除をし、皿を洗い、洗濯をし、洗濯物を干し、買い物をし、1日3度食事を作る(用意をする)。

そのうえ、子供一緒に遊び、子供に本を読み聞かせ、子供の宿題や持ち物をチェックし、子供と一緒にご飯を食べ、子供と一緒にお風呂に入り、子供と一緒に寝る。

基本、365日休みなくこの生活が続くのだ。

子供が未就園児のうちは特に、「自分をケア」したり「自分を労わる」明確な時間もない。

「何もしない」休息の時間を、定期的に、そして確実に確保することも難しい。

賃金が発生しない家庭内でのケア労働を担う私たち専業主婦にとっての、「一定レベルの質が保たれた衣食住の保証」は、夫の収入次第だ。妻の努力次第で、どうこうなるものでもない。

 

私は大学生時代、親からの仕送りで一人暮らしをしていた。

金額は12万円。内訳の目安は、家賃5万円、食費3万円、雑費1万円(消耗品代)、水道光熱費1万円、小遣い2万円(衣服費含む)だった。

 

当時と今とでは、生活の質は確実に上がっている。

その一方で、純粋な満足度はどうだろう??

きっと満足度に疑問があるからこそ「専業主婦に対する、社会からの諸々のマイナスな評価」に対してモヤモヤしてしまうのだ。

今の生活レベルでは私にかかるお金は 12万円以下だ。おまけに、家事と育児はキャリアとしてカウントされない。

 

家事・育児に対してド素人である(少なくとも、資格を持っているわけではないし、プロから知識と技術を習ったわけでもない)私にとっての、「家事・育児の対価=現在の暮らしのレベル」に満足していないからこそ、の違和感なのだと思う。

 

けれども、この違和感には、「自分にとって分不相応な感情ではないか??」との自分への問いが常に付きまとう。

突き詰めようと思えば、努力しようと思えば、我慢しようと思えば、もっと家事・育児の質を高めることは可能だからだ。

 



上記の記事でも指摘されているように、現代日本において「働いていない」人には人権がない。

ないけれども、皆が皆働ける社会でもない。

働けたとしても、経済的に自立できるだけの賃金を得られるわけでもない。

働けない分ケア労働に従事していても、労働とはみなされず社会的な評価も低い。

 

ベーシックインカムや、子供や老人に対するお金の支給だけではなく、ケア労働を担っている人間へのお金の支給もあっていいのではないか??と考えるのは、私が「働いていない」人だからだろうか??