日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

老人の徘徊は、厳密には「徘徊」ではない。

老人が道端でうろついているさまを「徘徊」と表現する人がいる。

けれども、本人にとって、それは意味も目的もない「徘徊」では決してない。

目的があっての「外出」かもしれないし、目的のない「散歩」や「散策」なのかもしれない。方角は違っていても、家族を迎えに行っているのかもしれないし、家に帰ろうとしているのかもしれない。

 どちらにしろ、彼、彼女にとって、「徘徊」は純粋な目的のある「外出」なのだ。

 

 

昨日、102歳の祖母が唐突に、

「家(自分の生家、徒歩20分)に帰りたい」

と言い出した。

実際に、私の手を借りて玄関を出、門扉のそばまで出たのだが、夕方だったおかげで

「もう暗くなり始じめたから、この家(祖母が住んでいる家)に泊まっていこう」

と話すと祖母は多少迷いはしたものの、説得に応じ家に引き返すことができた。

その際、

「家の人が心配するから早く帰らないと」

と言い出し再び外へ出ようとしたのだけれども、

「私が電話しておくから大丈夫。心配しないで」

と私が返すと素直に応じてくれた。

 

 

以前にもこんなことがあった。

幼馴染のおばあちゃん(母方)が、私の実家の前を壁に手を付きゆっくりゆっくりと歩いているのに出くわした。

歩くのがしんどそうだったので声をかけてみると、おばあちゃんは

「娘(幼馴染の母親)の家に行こうと思って」

と足を止めることなく、ゆっくりとでも少ししんどそうに壁伝いに歩を進めていく。

おばあちゃんと幼馴染の母親は同居ではないが、近居で徒歩5分の距離。とは言え、どうも足取りが危なっかしい。私は、おばあちゃんと手を繋ぎ、幼馴染の実家まで付き合い、家が留守だったこともありそのままおばあちゃんの自宅まで手を繋いで送っていったことがあった。

似たような出来事がその後も1度だけあった。

 

 

はたから見たら、私の祖母も(そのまま門扉をくぐり公道を歩いていたら)、幼馴染のおばあちゃんも所謂「徘徊」なのだろうな、と思うとちょっと切なくなった。

「徘徊」の意味は辞書によると、

① 目的もなく、うろうろと歩きまわること。うろつくこと。 「夜の巷(ちまた)を-する」
② 葛藤からの逃避精神病認知症などにより、無意識のうちに目的なく歩きまわること。(Weblio辞書より) 

 とある。

けれども、私の祖母にも幼馴染のおばあちゃんにも、目的がある。理由もある。

 

きっと見ず知らずのおじいちゃん、おばあちゃん相手だったら、私も声をかけることも、話を聞くこともきっとない。

だから、彼、彼女の歩く目的や理由を知る機会もない。

だから、私もきっと彼、彼女がただ行動を歩いているさまを「徘徊」と呼ぶのかもしれない。

でも、今回の祖母の件でとちょっと考えてしまった。
祖母は足が悪いため、手すりや介助なしでは外には出れない。けれども、寝たきり防止のため、家の中ではできるだけ歩くように(自室とリビング、トイレの往復ではあるけれども)はしている。
理想を言えば、涼しくなってくる今頃からだったら、祖母を外に連れ出し、家の前を50mでも歩いて往復するだけでも気持ちいいのかな、とも思う。
 
 
老人の「徘徊」を、文字通りの「徘徊」だと認識している人からしたら、その様子・存在自体がすでに怖い。
車が必須の地方都市では、交通事故の問題も怖い。
家族からしたら、迷子になって帰ってこれなくなるのも怖い。
 
だから、老人は、できるだけ家に閉じこもっていて欲しい、と思う人もいるのかもしれない。
 
けれども現実は逆で、寝たきりにさせないためにも、積極的に足腰を鍛えるためにも外出を奨励したほうがいいのかもしれない。
 
そんな、あれやこれやをつらつらと考えてしまった。