日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

大人の自己肯定感が低いのは、自己責任なのだろうか??

昨年3月に東京都目黒区で起こった、痛ましい虐待事件裁判の傍聴記録がホットエントリーに上がっていた。

anond.hatelabo.jp

エントリーでは、被告人の母親の自己肯定感が極端に低く、故に全く持って主体的な行動ができていない姿。

激しくゆがんだ認知を持ってしまったがゆえに、善悪の判断が持てず、その場その場で適切な行動をとれなくなっていく過程。

そうして、何より異常なまでに支配的で独善的な父親(義理)、雄大被告の残忍な言動が箇条書きで分かりやすく記されている。

 

 

自分自身の自己肯定感の低さを自覚しているせいか、被告人の母親の言動を他人事と思えず、何とも言えない、居たたまれない気持ちになってしまった。

 

 

私は自己肯定感に非常に強い関心を持っている。

そのため、自己肯定感に関する書籍やネット上での解説、考察、コラム等にもついつい敏感になりがちだ。

自然と、目についた情報に、条件反射的に手を出してしまう癖がついてしまった。もっとも、ざっと斜めに流し読みする程度である場合も多いのだけれども。

 

 

興味深いのは、媒体や著者が違えど、自己肯定感に関しはどこも誰も同じ主張がされている点だ。

  • 子供も大人のも関係なく、自己肯定感が高いほうがよい。
  • 子供の自己肯定感が低いのは親の責任。
  • 大人の自己肯定感が低いのは、自分の責任。(親の責任を追及しても解決には至らない)
  • 相手の言動を悪く受け止めるのは、自分の思考の癖が原因。
  • 相手から粗雑な扱いを受ける(損な役回りを引き受ける羽目になる)のは、本人がマイナス思考、被害妄想がひどい(自己肯定感が低いため)ゆえに、相手に不快感を与えているからだ。(だから、粗雑な扱いを受けるのは自分が悪い)
  • 相手は変えられない、けれども自分は変えられる。

などなど。

「他人は変えられない、けれども自分は変えられる」

「自己肯定感が低いから、人から粗雑な扱いを受ける。損な役回りを引き受ける羽目になる」

「ゆえに、人から粗雑な扱いを受ける、損な役回りを引き受ける羽目になるのは、自己肯定感を高めない自分が悪い。自業自得だ」

との理論がそこには常にある。

 

 

 

これは、セクハラ、パワハラ問題の際にも感じた疑問でもあるのだけれども。

  • 「人格を否定する言葉」によって傷つくか否か(自己肯定感が低いか否か)は、個人の言葉の受け止め方の違いだ。
  •  愛があれば、相手を思っての発言であれば「人格を否定する言葉」を発するのは、致し方ない。必要悪だ。
  • その発言の内容が事実であるならば、「人格を否定する言葉」を発するのは、時として被害を被る側の人間にとっては当然の権利である。
  • 劣っている相手、自分に害を及ぼす(かもしれない)相手であれば、人として粗雑な扱いをする(無視をする、辛く当たる、冷淡な対応をする)のは致し方ない。むしろ、当然の権利である。
  • 「人格を否定する言葉」に傷ついたのであれば、反論すべきだ。その場で反論しなかったのならば、しなかった(できなかった)人間が悪い。

と考えている人は、存外多いのではないだろうか。

家庭内でも、学校でも、会社でも、社会でも。

 

故に、自己肯定感を高める機会が、私達には非常に少ない。

逆に言えば、私達には自己肯定感を低める機会が、非常に多い。

 

けれども、大人の自己肯定感が低いのは、一方的に本人の責任とされる。 

 

私は思うのだ。

自己肯定感を高めるために、プラスの言葉がけをするのは、子供に対してだけでよいのだろうか??

大人の自己肯定感が低いのは、自己責任なのだろうか??

 

対、子供に関しては、「褒める育児」「叱らない育児」が最近流行っている。

なのであれば、大人に対しても、「褒める」「叱らない」を実践すべきではないのだろうか??

 

子供は、「褒めて、認めて、受け入れて」あげるべき存在で。

大人は、大人であるがゆえにその関係性の複雑さから「褒めて、認めて、受け入れて」あげるべき存在には決してならなくて。

 

件のエントリーに登場する被告の母親について。自己肯定感が低くさと、認知能力の低さ、知的能力の低さについて言及するコメントが目立つ。

個人的には、自己肯定感を高めるのにも、ある種の能力と条件(経済力、体力、知力、人脈等々)が必要だと思っている。

彼女の母親なり、祖父母なり、元夫なり、友人なり、児童相談所の担当職員なり、担当の精神科の医師なりの周囲の人間が、もっと彼女の心のサポートに積極的になっていたのであれば、多少事態が変わっていたのでは、との疑問が私にはある。

 

 

今後も、学校なり、医療なり、公的機関なり、福祉なりが、自己肯定感を高めるための心のサポートしなければ、この被告の母親のようなタイプの人間はなかなか負のループからは抜け出せないのではないだろうか、個人的には思えてならない。