日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

性的表現や、女性蔑視な表現は「不快」と教えるべき、なのかもしれない。

いや、

性的表現や、女性蔑視な表現は「不快」に思う人もいると教えるべき

と表現したほうが適切だろうか。

 

はてなブックマークで、ここ最近、漫画などの創作物に関する性的表現、特別男性向けの作品に対する性的表現(対象物が女性という意味)に関するエントリーが賑わいを見せている。

 

私にとって、少年漫画はとても身近な存在だ。

少年ジャンプやマガジンを自分で買いはしなかったけれども、習い事や頻繁に通っていた病院で最新号を毎週楽しみにしながら読んでいたのは、今では懐かしい思い出だ。

年の近い兄弟に挟まれて幼少期を過ごしてきたこともあって、日々の生活に当たり前のように少年漫画があったように思う。

 

当時の少年漫画にも、ちょっぴりエッチな表現が登場する漫画はいくつかあった。

あったけれども、子供の頃の私はそんなエッチなシーンに「恥ずかしさ」や「後ろめたさ」「興味関心」はあっても、「不快感」や「違和感」を抱くことはなかった。

 

けれども、今思い返してみると、ストーリに関係ないエッチなカットや、不自然にエッチな展開、それに対する登場人物の行動や反応に、「それってどうなの??」と思は思う。

 

容姿端麗、スタイル抜群(すなわち巨乳)、それでいて優等生でみんなに好かれる性格のヒロインが、度々裸にされたり(大事な部分は上手く手や物で隠されている)、下着姿を曝け出されたりするのだ。

それでいて、ヒロインは過度に怒ることなく、「悪意がないのだから」と最終的には許してしまう。

双方の親や教師が出てきて、事件が大ごとになりもない。

ヒロインが怒りを鎮めて、納得し赦すまでの経緯が丁寧に描かれもしない。

一方で、主人公も「ラッキー」の一言で済ませ、誠心誠意謝罪しない。心に傷を負わせたのを後悔もしない。

また、自分の性に無自覚なヒロインが、無自覚であるがゆえに、異性の主人公に体を密着させたり、体のラインがくっきりわかったり、露出度の高い服を好んだりするシーンが頻繁に登場する。

 

 

作者や、編集者、それを求める少年に悪意がないのはわかっている。

主な読者の対象が「少年」なのもわかっている。

漫画という創作物に難癖をつけるの自体がナンセンスなのもわかっている。

表現を制限し狭める行為が、作品をつまらなくするのもわかっている。

何が「普通」で何が「過度に性的」なのかの線引きがあいまいなのもわかっている。

 

分かってはいるが、世の中にあふれる、

「創作物の中の男子に都合の良い女の子像」

「露出の高い水着の女の子の写真」

「過度に胸や腰、太ももなどを強調、露出した創作物」

達を、多くの少女や女性が「不快」に思わずにいるからこそ、セクハラはなくならず、女性蔑視はなくならず、性被害の裁判で被害女性が不利に扱われるのもなくならない、のではないだろうか、と個人的には思えてならない。

 

 

何が不快で、何が不快でないかは人によって違う。

故に、不快に思わない人間がマジョリティーになれば、それが正義になる。

 

 

私の娘はまだ小学一年生と三歳だ。特に下の娘は羞恥心もなく、TPOの概念もないため、今だ人前で「おっぱい!!」「おしり!!」と叫んだり、触ろうとしたりする。遊んでいる最中、自分のパンツが丸見えでもお構いなしだ。

 

ママ友や幼稚園の先生からは、一つのアドバイスとして「ズボンやキュロット」「スパッツと一体化したスカート」「スカートの下にはスパッツ」を推奨されている。

そうして、子供たちがおまたをおっぴろげたりしていると、自分の子供関係なく「恥ずかしいよ」と互いに声掛けしている。

 

 

そういうことなのかな、この騒動を見て私は思う。

「恥ずかしい」や「不快」という人の感情を強制するのはとても難しい。

何が「恥ずかしい」で何が「不快」であるかの線引きも曖昧だ。

でも、教育として、何かを教えていかなければいけないのかな、と個人的には思えてならない。