車社会である地方都市で「車の運転に向いていない人」が車を運転する意味。
車社会である地方都市で”車の運転が向いていない人”が「車の運転をしない権利」「時と場合により、車の運転を断る権利」があるのだろうか、と時折疑問に思う。
- 高齢者ドライバーによる事故
- 煽り運転による事故
- アクセルとブレーキの踏み間違いによる事故
- 飲酒運転による事故
- ながら運転による事故
等々、自動車事故による痛ましい事件のニュースは後を絶たない。
理由は簡単で、適性がない人、運転技術が未熟な人でも免許を取得でき、公道を走れるからだ。
現実問題、最低限の運転技術と知識が取得できれば「下手くそな人」でも「向いていない人」でも免許の取得は可能だ。
現に、自動車学校の卒業率は非常に高い。98%との数字も出ている。
けれどもテレビやネット新聞を見れば、痛ましい自動車事故のニュース後はを絶たない。
周囲を見渡してみても、ちょっとしたこ擦り傷、小さな傷、へこみ傷、を残した車がたくさん公道を走っている。
凹んだフェンス、折れ曲がったポール、ガードレールの擦り跡などのちょっとした事故の痕跡も身近に存在する。
車を運転している人の皆が皆「向いている人」「運転技術が優れている人」では決してないのが現状だ。
けれども多くの人は、運転技術の未熟さを自覚し「できれば運転したくない人」や、客観的に見て「できれば運転してほしくない人」に対して、
「運転しない方がいいよ」
「運転しちゃだめだよ」
とは積極的には言わない。
なぜなら、「運転する」のが当たり前の社会では特に、「運転しない」のは「他人に迷惑をかける行為」になりうるからだ。
私はかつて、親や会社の上司から
「車の運転は慣れ(経験)だ」
とアドバイスされた経験がある。
要は、どんなに運転に自信がなくても「とにかく回数を重ねて慣れろ」と叱咤激励されたのだ。
「最低限の知識と技術があるのならば、多少運転技術が未熟な人間が公道に出るのは致し方がない(初心者ドライバーの経験値を伸ばす意味も含めて)」
のはある意味正論ではある。
ただ、この正論がの先に、高齢者に限らない
- 運転技術が未熟な人間
- 運転に不向きな人間
の事故があるのでは、と私には思えてならない。
先日、ちょっと興味深いエントリーを見つけた。
私の住む街はいわゆる「地方都市」だ。
それ故、というべきか身近にいる多くの家庭が一家に一台、場合によっては大人一人に一台車を持っている。
そのため、通勤や、仕事、買い物など日々の生活の中で車は欠かせない存在だ。
公共交通機関(バスと電車)もあるにはあるが、利便性は決して良くない。
具体的には、市の南側にJRの駅があり、その駅から放射線状に市内に広がる民間バスと、その駅から北に延び、隣県の境目までの三分の一を結ぶ私鉄、そうして東西に走るJRがあるのみだ。
おまけに、ショッピングセンターや大きな工場が郊外にいくつも散らばっている。
私自身、移動は基本車だ。両親も仕事やプライベートで車を使っている。
夫も車を持っており、車で通勤している。私も会社員時代は車で通勤していた。
かつての職場でも(そのまた前の職場でも)、99%の社員が車で通勤していた。例外だった先輩も、たまたま職場と家が近かったため徒歩通勤だったが、仕事で車を使っていた。
幼いころから「車のある生活」が当たり前だった。
そのため今の私は「車のない生活」が全く想像できない。
もちろん、私の身近ににも車を運転する習慣のない人、免許を持たない人がいる。けれども、その家族の誰かは必ず車を持っていて、その恩恵を受けているのが現実だ。
もっとも、家族の誰一人も車を運転しない家庭も沢山あるのだろうけれども。
少なくとも私の身近では、そういう話は聞かない。
だからこそ、思うのだ。
きっと、日々必要に迫られて運転している人の中には、自分の運転技術の未熟さを自覚し「できれば運転したくない人」や、客観的に見て「できれば運転してほしくない人」がもっと潜在的にたくさんいるのではないか、と。
けれども「できれば運転したくない人」が運転しないと生活が成り立たないのが、車社会である地方都市のリアルだ。
だから「できれば運転したくない人」「できれば運転してほしくない人」が運転し、結果痛ましい事故に繋がってしまうのではないだろうか。