伊藤詩織さんの事件について、「理想的」な被害者を求める人々。
伊藤詩織さんの事件について、非常にびっくりさせられた記事があった。
山口氏の非を全面的に認めつつも、伊藤さんにも多少の「落ち度」はあったのでは?との疑問について考察がなされている。
上記記事では、
ダメもとの相談が権力を意識させた
美人だから応援され美人だから被害に遭った
「女性」が「人間」であり続けるために守らなければならないこと
「セカンドレイプ」の掛け声がもたらす語りにくさ
(上記サイトより、サブタイトル抜粋)
とあり、そもそものきっかけは伊藤さんが女性であり、かつ美人であったからこそ起こった事件であり、もっと言えば、伊藤さん自身に「潜在的な期待」と「隙」があったからでは、と推察している。
一方で、 コメント欄では「男性も人脈を頼って相談や就職の斡旋をお願いするケースがある点」が、多く指摘されている。
この手の事件が起こった際、被害者側の「落ち度」を指摘する声は多い。
過去に起こった芸能人が加害者になった事件、ニュースでも、
- 被害女性が「派遣型マッサージ」と言う顧客に誤解と淡い期待を与えかねない職業に就いてた点
- ホテル従業員であった被害女性が夜勤勤務をしていた点
- 被害女性が業務の一つとして加害男性の部屋に直接備品を届けた点
- 呼び出されたからと、被害女性が夜、加害男性の家を訪問した点
等が指摘され、被害女性側の「落ち度」「隙」として一部の世間から叩かれる格好の材料になったのは記憶に新しい。
挙句の果てには「ハニートラップだったのではないか」との被害女性を著しく中傷する説まで出たほどだ。
上記の記事に限らない。
伊藤さんの事件の加害者とされる山口氏もまた、性被害に遭った女性からの伝聞を引用し「本当の性被害者は笑わない。だから伊藤さんは性被害者ではない」などと主張している。
なぜ、人はこうも「理想的」な被害者を求めたがるのだろうか??
性被害だけではない。パワハラ、セクハラ、いじめ問題でもそうだ。
「建設的で具体的な改善策、防止策」を提案するのは確かに大事だ。
だが、被害者の「隙」「落ち度」を指摘する行為は、間接的に加害者を擁護する面がある。
「○○だったのだから、被害に遭ったのも仕方がない」
事件やトラブルが起こった際、この手のセリフが第三者から出てしまったら、被害者は自分を責めるしかない。
確かに、被害者側にも多少反省すべき点はあるのかもしれない。
しれないが、一番反省すべきなのはやはり加害者であり、被害者ではない。
いや、そういう社会であってほしいという願望が私にはある。
だからこその違和感であり、嫌悪感であるのかもしれない。
被害者の行動や服装、職業選択の制限などが一番の改善策であり、防止策であってはならない。
そう声を大にして言える社会であってほしいと心から願う私だ。