小1の長女から「妹ばっかりズルイ」と言われて。
「褒める」について立て続けに気になるエントリーがあった。
昨日、出先で小1の長女から、
「○○ちゃん(3歳の次女)ばっかりズルイ!!」
と言われ、
おまけに、夫からも追い打ちをかけるように、
「本当のことなんだから、仕方がないよね」
と言われる出来事があったこともあり、色々と考えてしまった。
切っ掛けは、動植物公園で、歩き疲れた次女の愚図りだった。
「ママに抱っこされたい!!」と私にまとわりつき始めたのだが、私の手は長女の右手でふさがっていた。
長女は「ママと手を繋ぎたいから、パパに抱っこしてもらって」と次女に伝えるも、次女はそれを拒否。
夫が声をかけても「ママじゃなきゃ嫌だ!!」と夫を拒否したため、私が長女に一方的に「○○ちゃんを抱っこさせて」とお願いし、「もっとママと手を繋いでいたい!!」と主張する長女からの了解を得ないうちに繋いだ手を解き、次女を抱き上げた際に言われたセリフだった。
長女から件のセリフを言われるまで、私は
「この状況でどうしろっていうのよ!!」
と苛立ってさえいた。
その後改めて、長女から話を詳しく聞いたところ、
「いつも○○ちゃんばっかり優先されてズルイ」
だけでなく、
「○○ちゃんばっかり褒められてズルイ」
とも言われてしまった。
最終的には夫が次女を説得し、二人だけで一足早く車に戻り事なきを得た。
その後、私と長女は 二人きりで観覧車を楽しんだ。
長女に対しては、とても申し訳ない気持ちになってしまい、その場で長女の正直な気持ちを話したのをまず褒め、次にきちんと目を合わせ言葉で謝罪をし、抱きしめ、その場では仲直りをした。
だが、夫に対しては、私の中ではまだ何か心に引っ掛かりが残っている。
実は、以前にも夫と、私の父親から似た指摘を受けた過去がある。
夫曰く、
「ポン助は、××(長女)をあまり褒めない。」
父親曰く、
「ポン助は、××に意地悪だ。」
なのだそうだ。
自覚がある分、図星を付かれドキリとはしたが、同時に、
「好き好んで長女ばかりを叱っているわけではない。」
「理由があって長女を叱っているんだ。」
「褒めるときはちゃんと褒めている。」
「叱った後は、ちゃんとフォローしている。」
「そう思うんなら、自分たちで黙って長女をフォローすればいいじゃないか。」
「しょうがないじゃない、私には上手くできない(二人を平等に褒めるのも、接するのも)んだから」
との反論、言い訳が頭に浮かんでしまった。
そういう意味では、私は真に心から反省しきれていないのだ。
特に、フォローに関しては、夫も父親もできている時とできていない時の差が激しく、「自分のことは棚に上げて!!」との思いも正直ある。
おまけに彼らは基本的にあまり人を褒めない。
だから、長女も積極的には褒めない。
そのせいだろうか。
父親はさておいて、夫までも娘達への躾について「叱った後のフォローも含めて、ポン助(私)の仕事」と位置づけているのに、納得しきれていない自分が正直いる。
姉妹平等に、「褒める」「叱る」のは非常に難しい。
「褒める」にしても「叱る」にしても、理由がある。
良い事をしなければ褒められないし、悪い事をしなければ叱れない。
一方で時と場合により、悪い事をしなかったために褒められる事がもあれば、良い事をしなかったために、叱られる事もある。
また、一方を褒めたからと言って、一方を理由なく褒められない。
一方を叱ったからと言って、一方を理由なく叱れない。
それ故、長女と次女どちらかに偏りが出てしまうのは、致し方がない、とも思う自分がいる。
そこをどうフォローアップするかが重要だ。
けれども残念ながら、そのフォローアップ要因の主要メンバーに夫は入っているつもりはないらしい。
現実問題、「褒める」に関して、確かに回数的には長女の方が圧倒的に少ない。
それは私も自覚がある。
そうは言っても、小学一年生の長女と年少々の次女では「褒める」タイミングや対象はどうしても違ってくる。
「できて当たり前」が増え、同時に「頑張り挑戦して欲しい」も増えるのだ。
それは成長のあかしであり、次女の様に「歯磨き」や「排泄」などの生活のあたりまえを褒める段階ではないのだから、仕方がないだろう。
次女と同様に、長女に対しても
「ウンチをトイレでできて偉かったね!!」
とは言えない。
ただ、叱った後にできたことをきちんと「褒める」は心掛けてはいる。
一方で「優先」に関しても、確かに自分の都合で次女に傾きがちだ。
とは言え、長女を優先している場面(特に食事面。次女には食のこだわりがあまりないので)も多々あると思っている私としては、この周囲からの認識と、自分の認識の温度差には違和感が正直ある。
もっとも、そもそも自分自身が「褒められる育児」や「褒められる教育」を受けていないのだ。
親である自分が、努力と心掛けは今後も続けるにしても、
「完全な平等(主観的にも客観的にも)」
を親も子供も求めすぎない、もある意味大事なのかな、とも思う。
もちろん、今後も娘達にはできるだけ平等に接していきたいとは考えている。
ただ、折に触れて「時と場合により平等に接するのは難しい」旨をきちんとわかるように説明するのも、大人の大切な役割なのかもせれない。