共同親権について、思うこと考えること。
コロナに絡めた、共同親権に関する記事を目にする機会が増えた。
共同親権に関する記事には、必ずと言っていいほど「悪意のある理由で子供を連れ去られた側の親」が登場する。おまけに連れ去られた側の親は大抵父親で、十分な育児実績を持つイクメンだ。そうして、連れ去った側の親(大抵は母親)には、虚偽DVの主張などの過失があるとされる。
一方、共同親権を疑問視する記事や意見に登場するのは「やむ得ない理由(多くの場合は夫婦間のDV)で子供を連れ去った親」が主人公だ。
故に、両者の意見は平行線をたどり交わることをしない。
もっとも、共同親権を推奨する人々にも「面前DV」や「虐待」は、子供と引き離されてしかるべき案件との認識はある、らしい。
ただ、「面前DV」には当たらない、「夫婦の間のみで完結しているDV」や「目に見えないモラハラ」「経済的DV」などは、それに当たらないとの見解だ。
さて、難しいのは何をもって「DV」とするか、だろう。
そのガイドラインがまだまだ曖昧で、議論が不十分なのが現状だ。
先日、タレントのボビーさんの妻が夫をDVで通報する事件が起こった。
その際、ネットではそのDVとされる行為が「指先で頬を叩いた」程度だったのも手伝って、「DVには当たらないのでは??」との声が上がっていた。
共同親権を採用しているEUなどでは、このDVに関するガイドラインや被害者のみならず加害者に対するフォローを含めての「共同養育」だと聞く。
だが、現状の日本では、DVに関するガイドラインやフォローが不十分なうえ、「虚偽DV」を訴える人々の声に動かされての共同親権である面は否定できない。その点に私は強い矛盾を抱いている。
私は幸いにもDVの経験はない。
けれども、いじめの経験はある。いじめを見ても、訴えられても「なかったこと」にするクラスメイトや大人をたくさん見てきた。
故に、大人のいじめであるDVに、私は大いに関心がある。共同親権への関心はそんな経験が影響しているように思う。
正直、子供が被害者である虐待やいじめを解決する仕組みが十分にない現代日本で、果たして共同親権がうまくいくのか非常に疑問だ。
離婚後も共同教育を行っている元夫婦はいるのだ。
単純に考えて、大人一人の育児は大変だ。育児を一人でするより、育児能力があり、かつ強力的な第三者と今日慮しくして育児をしたほうが楽に決まっている。その選択をしなかったのには、それ相応の理由があったと考えるべきだろう。例え自分の両親の協力が期待できたとしても、お金や体力おまけに育児能力と自分との相性全てを兼ね備えた親はそうそういない。親の協力を得るのにも純粋な「楽さ」はない。
けれども、共同親権推進派の人に、どんなに私の疑問をぶつけても
「自分はDVをしていない」
「DVをする人はごくごく少数の人だ」
「DVをするようなごくごく少数の人は、きちんと警察に捕まえてもらえばいい」
「DVにあったとしても、子供とともに長期間家を空ける必要はない」
「DVの被害者は、然るべき保護施設へ単身で逃げるべきだ」
との答えが返ってくるばかりだ。
DVがDVとして認識され、刑罰の対象となる保証はどこにもないにも関わらないのに、だ。