良い評価も感謝もされない家事。「だから家事は大変だ。」
家事について(いや、家事のみならず育児についても)「簡単だ」とのネットでの投稿を時折目にする。
興味深いのに、この手の投稿は大抵どこか挑発的で、見下した表現で書かれている。
そのせいか、ついつい一言言ってしまいたくなる私だ。
先日もこんなエントリーを目にした。
人には人の得手不得手がある。キャパシティーがある。
家事が苦手で、お金を稼ぐのが得意な人もいる。
家事が苦手で、お金を稼ぐのも苦手な人もいる。
家事が得意で、お金を稼ぐのも得意な人もいる。
家事が得意で、お金を稼ぐのが苦手な人もいる。
お金を稼ぐのが苦手だからと言って、家事も苦手とする人が主に家事を担い、結果一定レベルの家事基準に達しないからと言って、 非難するのが妥当か??と聞かれたら、難しいところだ、と私個人は思ってしまう。
一般的に、
「お金を稼ぐのが苦手な人、時間の都合がつきづらく長時間まとまって働く時間が取れない人」が「主に家事や育児などの無償労働を担う」のは、非常に理にかなっている風に見える。
見えるが、「経済的自立」を良しとする昨今の風潮から鑑みるに、無償労働の負担が増えれば増えるほど、単純にお金を稼ぐ機会、つまり労働に費やす時間が減るのが現実だ。
多少の例外はあるが、一般論として労働時間と賃金は比例するのだから。
さて、件のエントリーに対して「子供の有無で変わる家事の大変さ」に対しても一言モノ申したくはなったのだけれども。
「良い評価も感謝もされない家事」に対するモチベーションや心の持ちようについても色々と考えてしまった。
仕事を始めてから数カ月がたつ。
近頃は、時期的なものとコロナの影響とが相まって、仕事が忙しく、社員さんから延長を打診される機会が増えた。
今の職場では15分単位で時給が発生するのだが、そのたった15分の延長でも、職場では大変ありがたがれる。たった、5分うっかり延長してしまうと社員さんから「もう10分延長してから帰りな」とも言わるの。
時給で働く人間として、とても当たり前の感覚なのだろうけれども、日頃無償労働を家庭内でしている身としては、その感覚がひどく新鮮に思えるから不思議だ。
近頃は、両親や夫の理解と協力もあって、毎回1時間延長するようにしている。
いるのだけれども、一時間仕事を延長するために「いつもより30分早い起床」も習慣になりつつあるのだから、妙な話だとつくづく思う。
ちなみに、夫は私のいつもの起床時間の一時間後に起床(というか私が起こしている)している。結果、今現在私は夫より一時間半早く起床し、自分の食事や身支度を含めた家事をしをしている計算になる。
もっと言えば、夫は基本朝自分の食事と身支度しかしない。余裕があるときにしか、子供たちに声掛けや 朝の準備、朝食のサポートをしない。
私が起床時間を早めた理由は、帰宅後の家事の軽減化だ。帰宅後は体がひどく疲れる。そのため、夕食の仕込みを朝の家事のルーティーンに組み込んだからだ。
繰り返すが、我が家の場合夫の理解が得られず最新家電や便利サービスに頼る選択肢がない。
故に、「お金」で解決はできない。
独身時代の貯金を切り崩す選択肢もあるにはあるが、最低賃金に毛の生えたような時給で働く身としては、心理的なハードルがどうしても高い。
おまけに夫は良くも悪くも家事に口を出さない。
故に、家事の簡略化のためにタスクの取捨選択や、工程を省くなどの創意工夫をするのは自分だ。
「家事の何が大変か」
私の場合、子供たちに邪魔されて自分のペースや基準で進められないのも大きなストレスではあるけれども。
「家族から軽視されている(ように映る)家事という名の業務」が自分にばかり偏っている現実へのストレスも相当大きい。
先日も、丸一日夫が私用で外出していた。
ギリギリ子供たちのお風呂に間に合うように帰宅はしたものの、子供たちとお風呂に入った際私に向かって「シャンブーとリンスが足りないよ」と声をかけてきた。「私に買ってきてほしい」と言うのだ。
そこに「夜自分が買いに行く」との選択肢がない事実に、無性に腹が立ってしまった私だ。
そういう小さな積み重ねが、地味にストレスを増大させていくのだと私は思う。
「家事を手放さないからだ。家事を抱え込むからだ」と人は言う。
でも、「やる気のない相手に、指示をする。下手に出てお願いする」のもまた、人によってはそれなりにストレスである。
それでいて「家事の出来に対して、手は出さないが口は出す」のは日常的な光景として家庭内に溢れている。
もっと言えば、悪い評価は家族の権利として保障されている節さえある。
だから、「家事は大変」なのだ。と、私は思う。