一度の「やめて」でやめない人はごまんといる。
非常に興味深いエントリーを読んだ。
「なるほど」と思ったのと同時に、「私も言動に気を付けよう」と考えを改める良いきっかけになった。
そうして「対子供に限らず、対大人に対しても”やめて”と言われたらやめるって大切だな」との認識を再確認した私だ。
現実問題、相手が笑いながら発する「やめてくださいよ」だったら、その言葉を真に受けず、すぐさまやめない人は多い。
振り返って考えれば、私自身も、くすぐられる娘に笑いながら「やめて」と言われても、すぐにやめなかった。
簡単なようで難しく、できているようできっと皆できていないのだ。
さて、上記の記事の中で特に響いたのはこの言葉だ。
「ここの教育は私もすごい大事にしていて、やめては絶対に2回言わせないっていうのを言っています。やめてって一回言われたらやめるんだよって子どもにも教えていますし、娘たちにはあなたのNOには力があるんだよっていうことを教えるため
「例えば大人がくすぐったりするじゃないですか。こしょこしょってしてやめてって言われたら、絶対やめています。やめてって言っても大人はやめてくれないんだって思ったら、自分のNOには力がないと思わせてしまう」
私自身の被害者意識が強いがゆえに、つい「私もそうだった」と自分の過去と重ねてしまった。
自分の子供時代・学生時代・会社員時代を思い返してみるに、「やめて」と言って、私の言葉が聞き入れられて、相手がその言動(暴力を伴う兄弟げんかやいじめ、パワハラ、セクハラ等)をやめてくれた、行動を改めてくれた成功経験が私には少ないのだ。
ないわけでは決してないのだと思う。ただ、記憶には残っておらず、成功体験として私を支えるエピソードにはなりえていない。
いや、もしかしたら「やめて」と言った相手は「やめた」「話を聞き入れた」と認識しているのかもしれない。
いるのかもしれないが、少なくとも当時も今も私自身は「自分のNOに力がある」とは考えられない。
もっとも、そもそもきちんと「NO」を言えているのかさえも怪しいのだけれども。そういう関係性でも、環境でもなかった可能性も非常に高い。
とは言え、私自身「全てにおいて、自分のNOにはまったくもって力がない」とは思っていない。
いないが、「おかれた状況や、相手の気質、相手との関係性次第では、自分のNOに力がない」とは思っている。
だから、時に私は、夫にも自分の親にも「NO」を言うのをあきらめてしまう。ためらってしまう。
「NOの力」だけではない。「お願いを聞き入れてもらえる力」も、「置かれた状況や、相手の気質、相手との関係性次第では、自分にはない」と考えてしまいがちだ。
偶然にも「察してチャン」を批判するエントリーも話題になっており、並行して読んだ。
正論であるにもかかわらず、どうして言い返したい気持ちになる自分がいる。けれども、自分の語彙力のなさのせいか、正論であるがゆえ化、反論する言葉が浮かんでこなかった。
とは言え、世の中には人を選んで「やめて」や「お願い」を聞き入れない人はごまんといる。
相手に「やめて」や「お願い」を言ってもらえる関係性や環境を作れない人もごまんといる。
その事実だけは、どうしても伝えたい。