料理ができなくても(マズくても)結婚できてしまえる悲劇。
漫画「妻の飯がマズくて離婚したい」話題になっている。
- 妻が夫の意見や代替え案をことごとく無視、却下しているから、妻が悪い。
- 妻自身、料理ができないのを自覚していながら、努力を怠っていたのだから、妻が悪い。
- 夫自身、妻が料理ができないのをわかったうえで結婚したのだから、夫も悪い。
- 夫が仕事をセーブして、料理を担当するという選択だってあったはずなのに、それをしなかった夫も悪い。
等意見が分かれているのが興味深い。
だがそもそも論として、料理ができなくても結婚できてしまえるのが、この問題の根っこなのでは、と私には思えてならない。
「料理は誰にでも簡単にできる行為」と認識されているからだろうか。この手の問題の配偶者を持つ人の多くは、「徐々に上達していくだろう」「子供が生まれれば変わるだろう」と楽観視し、そんな予想が見事に外れ落胆すると言うお決まりのパターンをたどっている印象がある。
もっと言えば、「妻が母親が手料理を作らなければならない」との社会通念や固定観念が男女問わずあるのも、大きいように思う。
いや、この場合の主語は「妻や母親」に限らない「収入の少ないほう」と置き換えることもできる。だが、現実問題として、妻と夫、母親と父親で比較すれば、平均して妻そうして母親の収入のほうが圧倒的に少ない。
「収入が少ない方が料理を、家事をする」は、一見理にかなっているようには思えるが、適材適所と言う面では理にかなってはいない。
とは言え、まだまだ、料理をせず、外食や中食、冷凍食品やデリバリーで日々の食を賄うのは、現実的な選択ではまだまだない。
金銭的な面だけでなく、先にも触れたが「料理を手作りしなければならない」との社会からの圧がまだまだあるからだ。
私も、そんな目に見えない圧を日々実感している。幼稚園や学校からもその圧は感じている。自分の両親からもそれを感じている。幸い、夫の両親からはない。が、料理が苦手で極力料理を作らないらしい義姉を快く思っていないと思しき言動を見聞きしたことはある。それは、遠回しの「料理は作るべきだ」の肯定だ。
では、私自身はどうだろうか。
私は料理が嫌いではない、と思う。
ものすごく下手くそでもない、と思う。
でも、胸を張って「私は料理が大好きです。得意です」と言い 切る勇気も、自信も私にはない。
故に、件のような「母親」が「妻」が主語の「料理がまずい」エピソードにはとかく敏感だ。
私自身、「お腹に入ればみんな一緒」とは思はない。
不味い料理より、美味しい料理のほうが好きだ。
料理をもっとうまくなりたいとも思う。
レシピ本をいくつも持っているし、定期的にネットで検索しもする。料理上手の母や叔母からのアドバイスやうんちくにも耳を傾ける。
だが、同時に「面倒くさい」「疲れる」との理由で、野菜の下茹でや、炒める順番などの「ひと手間」へのこだわりはない。
その違いを認識できていない、ともいえる。
手間暇かけた料理と、自分の料理を二つ並べて食べ比べでもしたら、その違いに気が付き、その重要性に気が付くかもしれないが、その機会が私にはなかったし、今後も作ろうとも思わない。
そういう意味では、私は「妻の飯がマズくて離婚したい」の妻側かもしれず、それゆえ自分が責められているようで、件の漫画を更新のたびにいちいち読んでは、毎回そわそわ、モヤモヤしてしまう自分がいる。
その一方で、比較的職に拘りのない夫への不満と物足りなさも私は自覚している。
朝昼晩とカレーでもいいと思っている夫と、さすがにそれは嫌だと思っている私との溝は、今でも全く埋まらず。毎回私が折れる形で日々の平穏を保っている。
そういう意味では、この夫婦のどちらの気持血にも共感できるし、肩を持ちたくもなる。
だが、やはり日々料理を作っている側の人間としては、妻を擁護したい気持ちが少しだけ強い。
もっとも、この漫画の妻の発言から推測する「食へのこだわりのなさ」には心から共感はできないのだけれども。