日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。

「やっぱりママじゃななきゃだめだよね」という魔法の言葉。

時に褒め言葉として、時にお愛想として、時に逃げの理由付けとして。夫が無意識に口にする言葉がある。

 

「やっぱりママじゃななきゃだめだよね」

 

この言葉は、魔法の言葉だと私は思う。

 

この言葉を耳にすると、嬉しいような誇らしいような気持ちになる。

あぁ、私は母親なんだな。そう皆に認められているんだな、とも思う。

私のもとに無言で小さな手を差し出し、私の腕の中に納まるとピタリと泣き止む。そんな瞬間が、私の母親としての小さな自尊心を支えてくれているのかな、とも思う。

 

上の子はおっぱいが大好きだった。(いや、今でも大好きだ。寝かしつけや、下の子の授乳の際に、いまだふざけて触ってくる)

一時、娘は私という人間ではなく、私のおっぱいだけが好きなのでは??と悩んだこともあった。(若い女性が、言い寄ってくる異性に対して、体目当てなのでは??と不安がる感じに少し似ているかもしれない)

けれども、結局はパパよりはママ。おじいちゃん、おばあちゃんよりはママ。そう言葉と行動で日々表現されることで、「あぁ、おっぱいだけが私の存在意義ではないんだなぁ」と安堵する毎日を今では送ることができている。

 

私は、夫からかけられるこの言葉がとても好きだ。

その一方で、夫がこと言葉を良くも悪くも都合よく使っているのでは??と思うときがどうしてもある。

 

自分にはおっぱいがないからと、寝かしつけはほぼ丸投げ。

基本子供の夜泣きには気付かないのだが、気付いたとしても自分では何もできないからとすぐ寝ることができる。

私がどんなに疲れていても、お腹が空いていてイライラしていても、眠たくても、自分の手に負えないと判断したら、「お願い」の一言で、愚図る娘たちを押し付けることができる。(と感じてしまう)

 

自分の体が、心がぎりぎりの時は、娘達には申し訳ないけれども「しんどさ」が顔にも態度にも露骨に出てしまう。けれども、娘達から逃れることはできない。いや、逃げることは許されない。ただ、距離は置きたいとは思ってしまう。 

 

 羨ましいなぁと単純に思う。

けれども、この自己中心的な不公平感は、娘を泣き止ませたときの、あのえもいわれぬ幸福感と引き換えなのだと思うと、少し複雑な思いだ。

「おおかみこどもの雨と雪」感想

 「おおかみこどもの雨と雪」をチラリと見た。(家事をしながら、下の子を負ぶいながらの中途半端な鑑賞になってしまったけれど)

以前、地上波初放送の時に見ているので、特別新しい発見はなかった。

当時抱いた違和感を、思わずネットで検索してしまったことを思い出した。あえて批判的なものを拾い読みしたせいか、今回も物語の筋やその運び方に引っかかりを覚えてしまい、素直に感動できなかった自分がいた。

もちろん、その素晴らしい映像美にはとても強く惹かれるものがあった。

子育てについての一つの考え方、あり方についても、とてもよく考えさせられた。子供主体の子育ての素晴らしさ、難しさが、良くも悪くもきれいに収まりよく描かれていたように思う。

けれども、一人の母親として見てしまうと、得も言われぬ違和感をぬぐいきることができなかった。

 

 

主人公の女性(花)が自宅出産を選ぶシーンから、10代20代の望まない妊娠をした女性が病院や助産院を頼らず出産し、残念な結果に終わってしまうニュースを連想してしまったこと。

困難な状況での、だれにも頼らない育児が、想像以上にさらりと、他人事のように描かれていた印象を抱いたこと。

一歩間違えば、虐待スレスレの子育てであったこと。(病院にかかれない、周囲に相談できないなど。事情が事情であるが故、仕方のないこととはいえ)

主人公の女性が、ことさら強く・賢く・美しく描かれすぎていて、ご都合主義に感じてしまったこと。

花のスーパーマザーぶりが、ひどく絵空事めいていて、感情移入できなかったこと。

もっとも、フィクションの世界に、現実社会の倫理観やリアリティなどを持ち込むこと自体が滑稽な行為なのだろうけれども。

 

大きな不安を抱えながらの妊娠・出産を経て、悩み躓きながらの育児を今現在も経験している真っ最中の自分としては、それらの過程が必要以上に美化されていたり、逆にないがしろにされいたりしたのが、面白くなかったのかもしれない。

 

 

けれども一方で私自身は、

花がなぜ避妊をしなかったのか。

おおかみおとこが、自分の人生に行きづらさを感じていたのに、なぜ子孫を残したのか。

などの疑問は、感じなかった。若くして妊娠・出産を経験する女性のなかには、自分の不幸な生い立ちを理由に、だからこそ温かい家庭に憧れるのだと聞いたことがある。

これらの花とおおかみおとこの思考と行動は、それに似た感覚なのではないのだろうか。 

やめられないこと。

私は、ネット上の相談サイトや2chまとめサイトを見るのが好きだ。

「他人の不幸は蜜の味」という目線で楽しんでいる部分は否定できない。けれども、一番の理由は、自分が他人とずれているという自覚があるため、一体どの度自分の常識や無意識下での行動が世間のそれと違うのか、確認せずにはいられないからだ、と私は思っている。

 

私の両親は、少し変わっている。(さらに言えば、実家で両親と同居している父方の祖母もだいぶ変わった価値観を持っている)

まず、他人の目を気にするということしない。自分の意見がすべてであり、長いものに巻かれる、とい思考や行動を極端に嫌う。

そんな両親を反面教師として今まで生きてきたつもりではある。

けれども、今までの人生の中で何度も繰り返し人間関係で躓いてきた過去がある。学生時代のいじめに始まり、職場でのパワハラ被害まで。

夫や義理両親との関係こそ良好だが、我慢や遠慮がない関係とはいいがたい。

おそらく、両親の短所を私もしっかりと受け継いでいるのだろう。もっとも、両親は優秀な頭を持っていた。優れた能力を持っていれば、多少性格難は問題なく生きていける。残念なことに、私は抜きんでた才能を持っていない。学歴も中途半端ながら、手先も不器用だ。容姿も10人並みときている。

 

何がきっかけだったかはあまり覚えていない。

覚えているのは、学生の頃友人に教えてもらった、実務的なカテゴリーのQ&Aサイトの出会いだった。その後、あれよあれよという間に人間関係の悩み相談系サイトにどっぷりはまり込んでしまった。

 

相談サイトを読んでいると、マジョリティと同じ感想を自分が抱いたときは、とても嬉しくなる。

反対に、マイノリティと同じ意見に立ったときは、何とも言えない焦りとともに、怒りに似た黒い感情を覚える。自分のことではないはずなのに、自分が攻撃されているような錯覚を覚えてしまうからだ。 

 

そうして、かなりの確率で、自分がマイノリティと意見を持つことに気づき、ますますやめられなくなってしまった。

 

自分がマジョリティ側に立つことができれば、やめられるのだろう。

けれども、どうすれば自分があちら側の人間になれるのだろうか?? 

夫の実家、自分の実家。親孝行とは??

先日夫の実家に行った。

上の子の幼稚園が先週から春休みに入ったこと。上の娘が義理両親によく懐いていること。私が美容院に行きたかったこと。(結局予約で一杯で、飛び入りでは利用できなかったけれど)の3つが理由だ。

 

夫の実家も同じ市内にある。片道車で30分。おまけに、車で5分のところに大型ショッピングモールもある。義理の両親も娘達にも私にも非常によくしてくれる。特に義理の母とはテレビドラマの趣味も合い、話も弾む。滞在中は、非常に楽しい時間を過ごすことができている。

家の中は掃除が行き届き、義理の母と父が作る料理もとてもおいしい。特別、義理の父の作るカレーは、上の娘の大好物だ。義理の父が趣味で作っている野菜も甘くてとてもおいしく、我が家の家計を大いに助けてくれている。

 

我が家の場合、夫の実家に行く際には、お決まりのスケジュールが存在する。

お昼少し前に夫の実家に到着。

お昼をもらい、そのまま娘達と一緒に遊ぶ。

夕食をもらう。

夫と娘達のお風呂ももらう。

9時前に帰路に就く。

帰宅後、私が娘達の寝かしつけをしつつほぼ8割・9割の確率で私も就寝。(その間、夫が翌日のお米の準備と洗濯物の取り込みをする)

翌日、不機嫌な顔で私が起床。不機嫌なままシャワーを浴びる。

 

夫の実家は好きだ。

だけれども、非常に快適に過ごせているにもかかわらず、なぜかとても疲れる。お風呂にらず寝てしまうのもつらい。翌朝の朝食に、夕食の残り物という手抜きが使えないのも痛い。

好き勝手飲み食いできないし、寝たいときに気軽に横にもなれない。出された食事に物足りなさを感じても口には決してできない。当然自宅でしかできない家事もできない。

 

一方で、当然のことながら義理の両親に娘達のお世話をお願いする時間は、少ない。極力そうなるように努力もする。

 

自分の実家ではどうだろうか?

好き勝手飲み食いはできる。寝たいときには、両親の体調と都合の如何では寝ることもできる。出された食事に物足りなさを感じたときは、自分で買い物に行ったり作ったりということもできる。娘達が寝ていたり大人しいなどの条件がそろえば、娘達を両親に預け、夕食を作りに自宅に帰ることも可能だ。

 

それゆえ、両親に娘達のお世話をお願いする時間も、当然長くなる。 もちろん、極力そうならないように努力はする。だが、限度はある。

 

 

夫の実家に、夫と上の子だけが行くという選択肢はない。

下の子の顔を見せることができなくなってしまうし(完全母乳のため)、上の子お世話を義理の両親に丸投げしてしまうリスクもある。(夫は、疲れているといつでもどこでも寝てしまう)

 

 

私は基本的に子供のお世話は大変だ、疲れるものだと思っている。大人の数は多ければ多いほど楽だとも思っている。

子供の顔を見せに行くことを親孝行と表現する人もいる。

おそらく両親が二人揃っていることや、子供の性格などの条件も大きいと思う。迎える側の祖父母の体力や性格、孫との相性もあるだろう。訪問頻度の問題もあるだろう。

 

 

実家に孫を見せに行くことは、すべからく”親孝行”なのだろうか??

少なくとも私は実家に頼ることを親孝行とは考えていない。

気が利かないこと、察すること。

私は、どちらかというと察してちゃんだ。けれども同時に、気が利かない人間でもある。

いや、自分なりには気を利かせる努力はしているのだ。

けれども、気を使いすぎて逆に気が利かないと評価されることが多い。

相手の気持ちや求めているものがわからず、相手にとって適切な気の使い方ができていないことも多い。

私の母は専業主婦だった。けれども、あれやこれやと先回りして気を利かせて行動するタイプの人間ではなかった。真の意味での気遣いのできる人間のロールモデルが身近にいなかったのことも、大きかったかもしれない。また、母親は私と同様に非常にマイペースな人間であり、かつ私と様々な価値観が非常に異なっていた。(もっとも、価値観がぴったりと一致する人間などこの世に存在しないのだが)母がしていたはずの気遣いに、私が気付いていたかった可能性も大いにあったかもしれない。

 

 

私が初めて正社員として働いていた会社は、小さな体育会系のサービス業だった。そうして、私が在籍していた部署では、女性社員が私一人だったこともあり、女性としての気遣いを大いに求められた。けれども、当時それらに十分こたえられなかったことに、大きなストレスを感じていた。

自分基準で動くことが正解とは限らない。かといって、相手の立場を想像して行動すると、その想像が徐々にエスカレートしていって、逆に自分の首を絞めることに繋がったりもする。

 

 

職場では気が利かないことは大きなマイナス評価になりえるのに、なぜ私生活では逆に気を利かせることを要求するもの=察してほしいと求める者が、非難の対象になるのだろうか??

職場では、厳然たる上下関係が存在するからだろうか??

求める側がより強く権利を主張するからだろうか??

 

夫婦は平等だ、と私は思っている。夫も思っていると思いたい。けれども、頭では思っているが、行動は伴わない。

夫の休日や帰宅後の家の中で、寛ぐ夫(子供と遊びながらソファーでテレビ鑑賞)と忙しなく立ち働く私という構図を客観視していると、本当に対等な立場にいるのだろうか??と思うことも多い。

 

結局、気か利かなすぎることも、過剰に察することを求めすぎることも問題なのだろう。

互いに気を使いあう関係が理想なのだろう。それも、相手の求めている形で。

 

けれども、世の中には気を使うことが能力的にできない人間も存在する。人一倍エネルギーを費やさなければできない人間もいる。一方で、意識的に気を使わないようにしている人間もいるらしい。(損得勘定などが働いて)

 

理想は、自分は最大限気を使う努力をしつつ、相手には察することを求めないこと、なのだろう。

今の私には、簡単ではない。