家事を手伝う、という表現
夫の家事を見ていると、時折「手伝っている」感が漂っているなぁ、と思うことがある。
おそらく、家事をえり好みしているからこその、感想なのかもしれない。家事だけでなく、育児でも同じことが言える。
先日も、下の娘がなかなか寝なかったため、私はおんぶ紐でおんぶをしつつ、皿洗いをしていた。すると、ちょうど手が空いていた夫は、ここぞとばかり「ちょっと出かけてくる」と家を出て行ってしまった。
もちろん、その前に「出かけてもいい??」と声をかけはしたのだけれど。その言葉の裏側に「もちろん、行ってもいいよね!!」という本音を垣間見てしまった自分がいた。
そこに、自分が洗い物をする、もしくは下の娘を抱っこしてあやす、寝かしつけるという選択肢はないようだった。(夜だったこともあり、生活リズム的には寝かしつけるが正解だと思われる。ただし、夫は下の娘を寝かしつけることが大の苦手でもある)
かつて流行った、「家事ハラスメント」という言葉
「家事ハラスメント」という言葉が、一時期話題になったことがある。妻からの、夫の家事に対する心ない一言が、ハラスメントに値する、というのだ。
そんな家事ハラスメントを訴える夫に対し、「手伝う」という言葉とその姿勢に過剰に反応する妻たちの声が大きくクローズアップされていたことが、とても印象的だったことを思い出した。
なぜ家事ハラスメントが起こってしまうのだろうか??
なぜ多くの夫は、家事を「手伝う」のだろうか??
- 物理的に、家事をする時間が取れない。(長時間労働ゆえ、そもそも家にいる時間が短い)
- 体力的に、家事をする気になれない。
- そもそも役割分担として、家事は妻の役目である。
- 家事に対する優先順位、完成度に対する意識の差。
- 能力的に家事ができない、もしくは向いていない。(と思い込んでいる)
- 家事の必要性を感じていない。
おそらく夫自身にはもっと多くの言い分があるのだろうけれど。自分が忙しなくしているさなか、夫がくつろいでいる(ように見える。事実は異なるのかもしれないが)というシチュエーションに、言いようのない不快感やモヤモヤ、イライラを、私は感じてしまう。
できる、できないなのか。やる、やらないなのか。
家事や育児をしていて思うのは、目の前に娘たちがいて自分と娘たちの生活を滞りなく成立させるためには、家事や育児を「できる、できない」という次元ではなく「やる、やらない」という次元でしか語りようがないのでは??という疑問だ。
けれども、夫にとっては「ワンオペ育児」を経験していないせいか「やりたい、やりたくない」という判断基準で家事や育児に取り組んでいるのでは??と思う時が多々ある。
だからこそ、「手伝う」と言ってのけてしまうのだろうか・・・・・・