気が利かないこと、察すること。
私は、どちらかというと察してちゃんだ。けれども同時に、気が利かない人間でもある。
いや、自分なりには気を利かせる努力はしているのだ。
けれども、気を使いすぎて逆に気が利かないと評価されることが多い。
相手の気持ちや求めているものがわからず、相手にとって適切な気の使い方ができていないことも多い。
私の母は専業主婦だった。けれども、あれやこれやと先回りして気を利かせて行動するタイプの人間ではなかった。真の意味での気遣いのできる人間のロールモデルが身近にいなかったのことも、大きかったかもしれない。また、母親は私と同様に非常にマイペースな人間であり、かつ私と様々な価値観が非常に異なっていた。(もっとも、価値観がぴったりと一致する人間などこの世に存在しないのだが)母がしていたはずの気遣いに、私が気付いていたかった可能性も大いにあったかもしれない。
私が初めて正社員として働いていた会社は、小さな体育会系のサービス業だった。そうして、私が在籍していた部署では、女性社員が私一人だったこともあり、女性としての気遣いを大いに求められた。けれども、当時それらに十分こたえられなかったことに、大きなストレスを感じていた。
自分基準で動くことが正解とは限らない。かといって、相手の立場を想像して行動すると、その想像が徐々にエスカレートしていって、逆に自分の首を絞めることに繋がったりもする。
職場では気が利かないことは大きなマイナス評価になりえるのに、なぜ私生活では逆に気を利かせることを要求するもの=察してほしいと求める者が、非難の対象になるのだろうか??
職場では、厳然たる上下関係が存在するからだろうか??
求める側がより強く権利を主張するからだろうか??
夫婦は平等だ、と私は思っている。夫も思っていると思いたい。けれども、頭では思っているが、行動は伴わない。
夫の休日や帰宅後の家の中で、寛ぐ夫(子供と遊びながらソファーでテレビ鑑賞)と忙しなく立ち働く私という構図を客観視していると、本当に対等な立場にいるのだろうか??と思うことも多い。
結局、気か利かなすぎることも、過剰に察することを求めすぎることも問題なのだろう。
互いに気を使いあう関係が理想なのだろう。それも、相手の求めている形で。
けれども、世の中には気を使うことが能力的にできない人間も存在する。人一倍エネルギーを費やさなければできない人間もいる。一方で、意識的に気を使わないようにしている人間もいるらしい。(損得勘定などが働いて)
理想は、自分は最大限気を使う努力をしつつ、相手には察することを求めないこと、なのだろう。
今の私には、簡単ではない。