日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

【ブログ企画】「雨の日のちょっといい話」

お題「雨の日のちょっといい話」

とても興味深い話題を提供してくださる「ふと思ったんだけど」さんで、面白そうな企画があったので、初めて参加することにした。

 

 

「雨の日」だけではない。

近所の神社、幼馴染のA君に家の前、を通るたびに思い出すエピソードがある。

子供が生まれ、自分の子供時代の写真を子供たちに見せる機会が増えたこともあり、子供たちにも幾度となく話したエピソードでもある。

また、現代に置き換えて考えると、色々と問題視されそうなエピソードでもある。

 

当時私は5歳ぐらいだった。

天気は曇り。今にも雨が降りそうなどんよりした灰色の雲は今でもよく覚えている。

時は昭和だ。まだまだ子供への防犯意識も薄かったこと、私の両親が若干放任主義だったこともあり、幼稚園の年中後半から年長頃から、私は親抜きで近所の神社(子供の足で走って3分)で友達とよく遊でいた。

もっとも、迎えにも来ない私の親の代わりに、5時になると迎えに来る友達の母親と途中まで一緒だったのだけれども。いつも一緒に遊ぶ仲良しのBちゃんの家と私の家は目と鼻の先だったので一人寂しく家に帰った記憶はなかった。

 

けれども、その日はAちゃんが途中で帰ってしまい、家が反対方向のCちゃんと一緒に遊んでいた。

帰る時間になり、Cちゃんと別れたのだけれども、雨がぽつぽつと降りだしてきたことに焦ってしまった私は、うっかり階段を飛ばして勢いよく降りてしまった。案の定、着地に失敗してその場でうずくまってしまった。足をひねってしまったのだ。

泣きはしなかったと思う。

けれども、歩こうとすると足は痛むし、雨足は少しづつ強くなるし、で途方に暮れてしまった。

 

そこに偶然現れたのが、幼馴染A君のおじさんだった。

A君のおじさんは、A君と一緒に暮らしており、年は私たちの親よりも少し若く、幼稚園が休みの日はよく近所を犬を連れて散歩していた。

A君のおじさんは、近所の子供たちの間でちょっと有名なおじさんだった。

当時は子供がまだまだたくさんいて、そこらじゅうの私道や駐車場で子供たちが好き勝手遊んでいた。

A君のおじさんはとても気さくな人だった。近所をぶらぶらと散歩しては、そんな子供たちを見守り、時に注意をし、時に遊び相手にもなってくれる、人気者だったのだ。

 

 

A君のおじさんは、うずくまる私を見ると、理由を聞いてくれただけでなく、なんと私を背中に負ぶい、わざわざ家まで送ってくれたのだ。

神社から私の家までは平たんな一本道だ。大した距離でもない。

とは言え、15キロ以上ある自分の子供でもない、ただの顔見知りでしかない幼稚園児を、雨の中、困っているからと負ぶって自宅まで送るのはすごいな、大変だな、ありがたいな、と大人になって、親になって改めて思う。

 

当時の、足を痛め家の床を這いずり回っている写真が残っている。

その写真を見るたびに、当時のことを、A君のおじさんのことを思い出す。

 

A君のおじさんは、いつの間にか引っ越してしまい、以来ずっと会っていない。

時々、会いたいなと思う。会って改めてお礼を言いたいないとも思う。

 

けれども一方で、私を助けたことなどすっかり忘れているのでは、と思うと少し寂くもある。A君のおじさんによくしてもらった、かわいがってもらった近所の友達はたくさんいたのだから。

ちなみに、私の両親は私の怪我は覚えていたけれども、Aくんのおじさんに助けられたのはすっかり忘れていた。