「やっぱりママじゃななきゃだめだよね」という魔法の言葉。
時に褒め言葉として、時にお愛想として、時に逃げの理由付けとして。夫が無意識に口にする言葉がある。
「やっぱりママじゃななきゃだめだよね」
この言葉は、魔法の言葉だと私は思う。
この言葉を耳にすると、嬉しいような誇らしいような気持ちになる。
あぁ、私は母親なんだな。そう皆に認められているんだな、とも思う。
私のもとに無言で小さな手を差し出し、私の腕の中に納まるとピタリと泣き止む。そんな瞬間が、私の母親としての小さな自尊心を支えてくれているのかな、とも思う。
上の子はおっぱいが大好きだった。(いや、今でも大好きだ。寝かしつけや、下の子の授乳の際に、いまだふざけて触ってくる)
一時、娘は私という人間ではなく、私のおっぱいだけが好きなのでは??と悩んだこともあった。(若い女性が、言い寄ってくる異性に対して、体目当てなのでは??と不安がる感じに少し似ているかもしれない)
けれども、結局はパパよりはママ。おじいちゃん、おばあちゃんよりはママ。そう言葉と行動で日々表現されることで、「あぁ、おっぱいだけが私の存在意義ではないんだなぁ」と安堵する毎日を今では送ることができている。
私は、夫からかけられるこの言葉がとても好きだ。
その一方で、夫がこと言葉を良くも悪くも都合よく使っているのでは??と思うときがどうしてもある。
自分にはおっぱいがないからと、寝かしつけはほぼ丸投げ。
基本子供の夜泣きには気付かないのだが、気付いたとしても自分では何もできないからとすぐ寝ることができる。
私がどんなに疲れていても、お腹が空いていてイライラしていても、眠たくても、自分の手に負えないと判断したら、「お願い」の一言で、愚図る娘たちを押し付けることができる。(と感じてしまう)
自分の体が、心がぎりぎりの時は、娘達には申し訳ないけれども「しんどさ」が顔にも態度にも露骨に出てしまう。けれども、娘達から逃れることはできない。いや、逃げることは許されない。ただ、距離は置きたいとは思ってしまう。
羨ましいなぁと単純に思う。
けれども、この自己中心的な不公平感は、娘を泣き止ませたときの、あのえもいわれぬ幸福感と引き換えなのだと思うと、少し複雑な思いだ。