日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

「好き嫌いがあることは恥ずかしいことだ」と思うこと。

子供の食について、こんな記事を読んだ。

kazenoya.hatenablog.com

 

 

あぁ、こう思えたらいいなぁ、とつくづく思った。その一方で、どうしてそう割り切って思えないのだろう、といつもの悪い癖で色々考えてしまった。

 

 

「好き嫌いがあることは恥ずかしい」と思うこと。

 

上の娘の食に関して、昔から悩みは尽きない。偏食、小食、食べむらなどなど。

それでも、なぁなぁでここまでやってきている。朝食は娘の好きなもの中心。夕食のメニューは、一つは娘の好きそうなおかずを必ず用意。主食が白いご飯の時のおかずは基本3品と固定。苦手なものも極力一口食べるようにと励ましてみたり。休日の昼食は栄養面に頓着せず、いつも簡単なもので済ませ。

こうして文章にしてしまうと、特別気に病んでいる風には見えないのかもしれない。

 

けれども、どこか後ろめたさと後悔、そうして得も言えぬ不安がつきまといながらの食事は、私にとってあまり楽しいことではない。

 

 夫の友人の一人の子供に、極端に偏食の子供がいる。BBQや外食などの食事会の場では、その子供が食べられるものがあまりにもないため、父親はほとほと困っていた。結局は、お菓子やジュースで空腹を満たしていたようだった。
そんな光景を目の当たりにしてしまうと、どうしても外野からの好き勝手な言葉も自然に耳に入ってくる。

そんな中で私が学んだこと。それは、子供の偏食に関して、揶揄されるのはどんな状況でも父親ではなく母親である、と言うシビアな現実だった。料理が苦手な奥さんを遠まわしに責めている風な話しぶりで、子供の父親は愚痴をこぼし、周囲はしきりにその父親と子供に同情していたからだ。

 

子供の食に関して、責任を問われるのは、やはり母親である。そうして、そんな刷り込みは、私の中にも根強くあるのだ。

「他人の言葉なんて気にしなくてもいい」と人はいうかもしれない。けれども、自分の評価にそれが直結してしまうと考えると、なかなか開き直ることが難しいと思える、自分がいる。

 

 

卵が先か、鶏が先か・・・・・・

 

娘の偏食の原因の一つは、私が食卓でいつも笑っていないからなのかもしれない、という懸念がいつも私の頭の中にある。それ故と言うべきか、娘がいやいや食べる姿を目の当たりにしながらの食事は、私にとって心から楽しい時間ではない。

 

卵が先なのか、鶏が先なのか。

娘の笑顔が少ないから私が楽しくないのか、私の笑顔が少ないから娘が楽しくないのか。正解はないからこそ、悶々としてしまう自分がいる。

 

そんな、時に楽しくない食卓を囲みながらも、ふとしたきっかけで思うことがある。

それは、本当にこのままでいいのだろうか??と言う当然の疑問だ。

 

口の悪い母親の何気ない一言だったり。

極稀にある友人たちとの食事会での、周りの子供たちの食事風景との差だったり。

出先で娘の好きそうなメニューがなくて、困った経験だったり。

ネットで目にする、理想的な食事メニューの写真であったり。

「子供がパクパク食べる!!」というようなキャッチコピー付きのレシピだったり。

 

そんな、普通の子供が「ちゃんと食べている」姿を目の当たりにしたり、リアルに想像してしまったりすると、どうしても娘のことではなく自分のことを恥ずかしく思ってしまう。

「躾がなっていないから、料理が下手だから、食べないのではないか」と思われているように、感じるからだ。

そうして、ますます娘との食事を楽しめなくなってしまうのだ

 

 

「好き嫌いがあると面倒くさい」と思うこと

 

娘の好き嫌いに関して、もう一つ思うことがある。

私は料理をするのは好きなほうだと思っている。けれども、献立を考えるのは苦手だ。日々、和洋中食材や調理方法が被らないように気を配らなければならない、という思い込みがそうさせているのだと思う。そのうえ、家族の好き嫌いという問題が絡むことで、一気に苦手意識が出てしまうのだ。

 

夫はあれがダメ、これがダメ。

上の娘はあれがダメ、これがダメ。

下の娘はあれがダメ、これがダメ。

 

家族三人の好き嫌いを考慮していると、どんどんどんどん選択肢の幅が縮まってしまうのだ。もちろん、「食べないだろうなぁ」と割り切って食卓に上げることももちろんする。けれども、不味そうに箸やフォークでつつかれたり、口から出されたりすると、つい嫌味を言いたくなってしまう。「食べたくないなら、食べるな!!」と。そうして、食卓の雰囲気を一気に暗くしてしまう。

もっとも、夫に対してはそうはならない。「味が変だ」「苦手だ」と口にはするものの、出されたものは基本は残さずに食べてくれるからだ。

 食事を残されることで、栄養の偏りという、一番の心配が残されたまま食事を終えることになるのだ。一週間のトータルで見て、というアドバイスもあるが、一食一食でちょっとずつ栄養を取っている今現在の状況の中では、その一食のウェイトがどうしても大きくなってしまうのは、仕方のないことではないだろうか、と個人的には思っている。

 

 

「楽しい食卓」=「おいしそうに間食してもらうこと」という思い込み

 

私の中には、どうやら「楽しい食卓」=「おいしそうに完食てもらうこと」という強い先入観があるようなのだ。

 

その先入観から解放されない限り、家族みんながニコニコしながらの楽しい食卓は、訪れないだろう。

 

技術を磨き、知識を増やすことで好き嫌いを極力なくしていくのか。

開き直って、「子供に好き嫌いがあることは、自然なことなのだ」と心のそこから思える様にするのか。

 

今のは私は、後者の方に気持ちが傾きつつある。

麗らかな春の日、友人とのピクニックでの一コマ。

例えお昼がメロンパン一個とジュースだけであったとしても、本人が幸せならそれでもよいのかな、と自然に思える日が来ることを願って。