他人を変えることはできない、という正論について
会社員時代から考えていたことがある。
「他人を変えることはできない、変えられるのは自分だ」という考え方についてだ。
当時、人間関係や仕事自体にいろいろ思い悩んでいた。悩んでいても事態は何も変わらない。わかってはいても、なかなか自分を変えることはできなかった。そんなかつての悶々とした黒い感情を、不意に思い出させる記事が最近更新されていて、改めて考えるきっかけになった。以下二つの連載記事だ。
しんどいと思っているときに、変わる努力を強いられることへの理不尽感
当時も、何人かの友人に愚痴交じりに話を聞いてもらうことが多々あった。今思い返すと、非常に迷惑な話だったと思う。時に感情的になりながら、同じ展開の話を繰り返してしまっていた。
理性では、「他人を変えることはできない、変えられるのは自分だ」という正論を理解できてはいた。いたけれど、それを自分の中で咀嚼し納得できていただろうか??と問われると、答えはノーだ。
冷静になって考えると、結局悩みの根っこは会社員時代の言動と考え方の癖と、育児中の今のそれとで、全く同じものだ。
自分に自信がないがゆえに、自分の未熟さをカバーすべく、努力と我慢を重ね(時に別方向に過剰な熱量を注ぎつつ)、その結果相手がその努力と我慢の上に胡坐をかくようになり(言葉は悪いが)、結果自分の相手への不満が徐々に蓄積され、限界まで達した後爆発させるという悪循環に陥ってしまうのだ。
けれども、当時も今も極限に「しんどい」と思っているときにはどうしても、自分を変えることに対して
「今現在苦しんでいる、被害者であるはずの自分が、さらに苦しみを伴うであろう自分を変える努力をなぜしなくてはならないのか・・・・・・」
という疑問が頭から離れなくなってしまい、行動を起こすことが難しくなってしまっていた。
これも私の直すべき悪い考え方の癖なのだろう。単なる屁理屈だとも思うのだけれども、うまく考え方を改めることができない。
いじめられるほうにも原因がある、という考え方
いじめ問題を語る際の意見の一つに「いじめられるほうにも原因があるのだから、いじめられるのは仕方がない」というものがある。客観的に考えると理解できなくもないと思う一方、だからと言って「仕方がない」といじめを黙認してしまうのは、当然間違っている。
自分が人間関係でしんどさを感じているときに、私の中で葛藤が起きる葛藤にとてもよく似ているように思う。
「自分に非があるのだから、我慢すべきだ」
「いや、だからと言って理不尽な仕打ちを強いられるのは、間違っているのでは??」
思うに、そんな反論が頭から離れないがために、「自分を変える努力」に身が入らないのかもしれない。
自分を変えられない理由。求めているのは、「他人を変えるための魔法の言葉」
恥をしのぎ、非難を覚悟で言うと、「しんどさ」を感じているときに、私が心から求めているのは、「他人を変えるための魔法の言葉」だ。
こうして文字にして書いてしまうと、我ながらなんて無責任で卑怯な人間なのだろうと思う。けれども、これが本音であるように思う。だからこそ、どうしても自分から積極的に変わろうという意欲が出てこないのだろう。
卵が先か、鶏が先か。
理不尽な扱い(思い込みも大いにあるのだろうけれど)を受けていると、相手の非を盾に、「相手も、自分の非を多めに見てしかるべきだ」と私は思ってしまいがちだ。それ故、素直な気持ちになれないのだろう。そうして、ますます関係は歪なものになってしまう。
結局は、だからこそ「他人は変えることはできない、変えられるのは自分だ」という正論に落ち着く。
書籍やネットでも勉強した。頭ではわかっているのだ。けれども簡単ではない。
もっとも、簡単ではないからこそ、永遠のテーマとして、自己啓発本などで語り続けられるのかもしれないけれども。