「いじり」を「おいしい」ととらえる価値観の危うさ。
昼間のテレビで、韓国のバレー選手によるいじめについて取り上げられていた。
- 10年前の出来後である。
- 被害者とされる側の話しか取り上げられていない。
- 物的証拠がない。
などの点から、加害者への処分が過剰ではないか、との意見もある、らしい。
さて、「いじめ」問題が話題に上がるたびに出るのが「いじり」についての議論だ。「いじり」を笑いに変えるのを「良し」とする価値観がある。なにをもって「いじめ」ではなく「いじり」とするのか。「いじられた側の受け取り方次第」とされるからだろう。
「いじり」を積極的に「良し」とする価値観を持つ人は、二つの種類の人間に分かれる。
- 「いじり」をする側の人間。
- 「いじり」をされる側の人間でかつ、いじられることで得られる周囲からの笑いを「おいしい」ととらえる人間。
だ。
人が何かに対しどう感じるか、とらえるのかは自由だ。批判するのは間違っているのだろう。
だが、あえて私は言いたい。
「いじり」を「おいしい」ととらえる価値観は間違っている、と。
何故なら、「いじり」を「おいしい」ととらえる価値観を「良し」とする人がいる限り、「いじめ」を拡大解釈し「いじり」だと主張する人間がいなくならないからだ。
多くの場合、「いじり」をする側の人間は、目上の人であり、年上であり、有名な人であり、能力が高い人であり、色々な意味で声が大きい人だ。普通に考えて、入社したての仕事のできない若手社員が、成績トップの先輩社員を「いじり」はしないだろう。周囲の社員も、彼らの上司も、その「いじり」を「おもしろい」とは思わないはずだ。「いじり」は「上の人間」が「下の人間」にするから面白いのであって、「下の人間」が「上の人間」にする「いじり」は、ただの空気の読めないバカのしでかした、取り返しのつかない失態でしかなく、社会的な処分の対象になる。
「いじり」は基本「上の人間」が「下の人間」にするものだ。「下の人間」にとって、「いじり」を「おいしい」ととらえるのは、ある種の処世術でもある。かつて、凄惨ないじめ被害の経験のある芸人が「いじられる」ことに自分の価値を見出すエピソードがまるで美談のように語られるのは、よくある話だ。だが、そのせいで、「いじり」を快く思えない人間、いじられることで生じる笑いを快く思えない人間の口が塞がれてしまうのだから、ひどく皮肉だ。まるで、「おいしい」ととらえられないのが「悪」であるかのように、周囲から冷たい視線を浴びせられかねない。
いじられている側の人間が、傍から見て楽しそうでも、本当に楽しいのかはわからない。本当に楽しいのか。そう思わされているだけなのか。常に楽しいのかは、羽田鴨、そうして本人にもきっとわからないのではないだろうか。
虐待されている子供が、虐待をしている親をかばう心理とちょっと似ているのかもしれない。
虐待されている子供が、自身の親をかばうさまを見て「この親子は、今まで通り一緒に暮らしたほうがいい」「だから親と子を引き離してはいけない」とはならないだろう。
「いじり」にも、同じことが言えるのではないだろうか??と私には思えてならない。