日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

セクハラといじめ。変らなければいけないのは、被害者か加害者か。

セクハラやいじめはされたほうが「不快」に感じ「傷ついた」と思ったらそれはセクハラであり、いじめである、と人は言う。そうして、セクハラした側、いじめた側が悪いと多くの人は言う。

 

けれども一方で、いじめや仲間外れなどの人間関係で躓いている人間に対しては、時として「そう感じるあなたが悪い」「被害者妄想だ」「悪気はないのだから、気にするべきではない」「そもそもいじめや仲間外れになる原因があなたにもあるのでは??」などといったコメントやアドバイスがなされることも多い。

 

 私は、いわゆる自己肯定感というものが低い。それをはっきりと自覚するようになってからというもの、時折ネットや書籍でアドラー心理学などを勉強をするようになった。とは言え、難しい学術書をまじめに勉強したわけではなく、挿絵の多い入門書を立ち読みしたり、1~2冊購入したりした程度だけれども。

 

そこでよく登場するのが、「人は変わらない、変われるのは自分だ」というフレーズだ。

 

セクハラは犯罪だ。だから、変わらなければいけないのは被害者ではなく、加害者だ。最近の流れとして、自己責任論をもってして被害者の非をあげつらうのを良しとしない風潮があるように思う。少なくとも、テレビなどの公的メディアでは、自己責任論を持って来ると大いに叩かれる。

だから、変わらなければいけないのは、当然加害者側となる。

 

けれども、いじめや仲間外れなどの人間関係のいざこざに関しては、今だ変わらなければいけないのは加害者ではなく、被害者であるとされがちだ。

自分で改善できるいじめられる要素(容姿、性格、言動)を、改善することもなくそのまま放置した自分が悪い。(マナーの範囲で、人に嫌われない努力はするべきである)

受け取り方の問題であり、傷つくほうが悪い。

そんなネガティブ志向を持っているから、人間関係を拗らせるのではないか。

であるのだから、認知の歪みを正し、自己肯定感を高めることで、改善できるはずだ、と。

 

 

近頃話題になったセクハラ問題では、被害者の非は公の場では問われることはなかったように思う。いや、問われることはあった。あったけれども、そういう声に対しても、きちんと非難の声が上がっていた。

変わるべきなのは加害者側である、という共通認識がセクハラに関して言えば出来上がりつつあるように私は思う。(もちろん、例外もある)

 

 

一方で、いじめや仲間外れなどの人間関係についてはどうだろうか??

先日興味深い質問を見つけた。

どうして、いじめられる側が変わらなければいけないのか : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

私は、常々この投稿者と同じ疑問を持っていた。けれども、そのような疑問を持つ人間は少数派であるらしい。

 

セクハラに関して言っても、近年「Mee too」と叫ぶことが、自分を変えることにあたるのかもしれない。

とは言え、人々が「Mee too」と叫んでいるとき、彼女ら(彼らは)「もっと自分(の容姿、性格、言動)を変えなければ「(改めなければ)」と言う気持ちを込めてはいないだろう。

 

 

セクハラに関して、理想的な考え方だなぁと思った記事がある。

blog.lalamiamor.net

 欲を言えば、セクハラ以外の物事にも上記のような姿勢を貫くことができればなぁ、と個人的には思っている。

 

けれども、セクハラ以外の人間関係のごたごたにはまだまだ自己責任論だけで片付けれれることが多いのが現状だ。

そこに、私はどうしても矛盾を感じてしまう。

自分に非があったならば、相手を非難すること、相手にその非を認めさせることを望むことは、してはいけないことなのだろうか??と。