日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

102歳の祖母を見て考える、介護と育児の共通点と相違点。

正確には、あと数日で102歳になるのだけれども。

 

昨日「介護放棄」のニュースがワイドショー番組で取り上げられていた。

 

私の父方の祖母は、数日後に102歳になる。下の娘が夏生まれで2歳だから、ちょうど100歳離れている計算だ。

認知症の症状は多少あるものの、在宅で寝たきりにならずおむつはしているが自力でトイレにも行く。

2回骨折がきっかけで入院をしているが、奇跡の回復を見せ退院した過去も持つ。現在週2回デイサービスセンターに通いながらも、自宅で生活している。

お風呂に関しては、一人では入れているかは定かではない。

とは言え、モノや壁につかまりながらも一人で歩き、自室とトイレとダイニングの間を行き来することはできている。

 

おかげで、というべきか。

同居の両親がする祖母の介護は、私が知る限る限りではこんな感じである。

  • 一日3食の食事の準備。(介護食とまではいかないが、基本やわらかめの和食メニュー)
  • トイレに行く際の歩行補助。(毎回ではない)
  • トイレの場所を聞かれた際に答える。
  • その他、質問に答える。(書類や郵便物をテーブルに放置しておくと、しつこく追及されるため。プラス、食事をしたことを日に何度も説明しなければいけない。食べてもすぐに忘れてしまうため。)
  • お茶出し。(日に5、6回要求されるので、地味に面倒くさいらしい)
  • 就寝準備の指示出し。(入れ歯を出し、パジャマに着替えさせる)などなど。
  • おむつの準備と処理。(履くのは自力)

もっとも、私が知らないだけで、もっと他にもやっていること困っていることがあるのだろうけれども。

 

自分の祖母を見る限りでは、介護と育児は似ていいるなぁとつくづく思う。週2回通うデイサービスセンターのことを、私の父は上の娘に「おばあちゃんの幼稚園」と説明するぐらいだ。

とは言え、全く同じわけではない。お年寄りと子供、それぞれの人によっても年齢によっても色々違ってい来る。同じところもあれば違うとことももちろんあるが、ざっと思いついたことを書いてみようと思う。

 

共通点

  • 一日三食食事の世話や着替えなど、日常生活のすべてにサポートが必要。
  • 食べたものを吐き出す、散らかす。
  • おむつを履いている。
  • 基本一人にしておけない。(老人の場合も骨折や徘徊、コンロの使用による火事の恐れがある)
  • いたずらをする。(包丁を使う、コンロを使うなど、老人の場合いたずらとは言わないが、結果怪我や事故につながってしまうことを考えると、似ているように思う)
  • 同じことを何度も言う。聞く。
  • 話が時折通じない。
  • 夜起こされる。

相違点(特に介護)

  • 抱っこをせがまれない。
  • 一緒にお風呂(湯舟)に入る必要がない。というか、できない。
  • 一緒のテーブルで食事をとらないことへの心のハードルが低い。(個人的感想)
  • スキンシップを要求されない。(人によるのかも??)
  • 寝かしつけの必要がない。(これも人による??)
  • 外出時に、必ずしも外出先へ連れていく必要がない。一人で留守番させることへの心のハードルが低いため。(虐待という認識にはなりにくい)
  • 母親学級、父親学級のような、「介護学級??」に当たるようなセミナーが身近にない。世間的に知られていない。
  • 介護対象者(おじいちゃん、おばあちゃん、父親、母親などなど)の過去の言動を知っているので、純粋無垢な気持ちで接することが難しい。
  • 介護施設(子供の場合は児童養護施設??)に預ける事への心のハードルが低い。(金銭面でのハードルは相当高いけれども)
  • 介護をする人間が複数いるため、責任のなすりつけ合いになりやすい。(基本実子とは言え、現実は子供の配偶者の協力は必要不可欠。実子が複数いる場合、平等に介護を分担することは極めて困難)
  • 「しつけをする」「社会生活を送るためのルールを教える」「勉強を教える」など、相手に何かを教えるという概念が基本ない。(認知症の治療や予防として、新たに何かを学ぶということは必要かもしれませんが)
  • 終わりがない。
  • 言葉は悪いが、何かあっても「寿命だから」「もう年だから」という理由で「諦める」という選択が比較的に容易にできる。

もっとも、現場をよく知らないので、かなりの偏見が入り混じっているとは思うが、私の考える介護と育児の共通点はこんな感じだ。

こうして改めて色々と書き連ねてみると、 思いのほか相違点が多く出てきたことに、私自身とても驚いている。

 

 

私は子供の頃はとてもおばあちゃん子だった。一緒にお風呂に入ったし、一緒の布団で眠ることもあった。

けれどもそれは遠い昔の話だ。

祖母のことは今でも大好きだ。でも、もう一緒にお風呂に入ったりはしないし、できない。我が子に対するように、抱きしめたり「好きだよ」とじゃれ合うこともない。そういう対象にそもそもならない。

「嫌悪感」を持ってはいないけれども、我が子のような「愛着」の対象では決してない。

 

「介護」の大変さは、介護の対象者が「ただ純粋に愛してやまない」存在ではないからなのかな、と思う時がある。

スキンシップを求めることも求められうこともない。

日常的に「好きだよ」なんて言う甘い言葉を交わし合うこともない。

そんな相手の世話を「お金」を介さずすることって、とても難しいなとつくづく思う。

 

「ただただ愛しいだけの」存在である娘の育児に手を焼いている自分としては、「介護」問題の難しさ、奥深さについて考えさせられるばかりだ。

 

結局のところ、「介護」も「育児」も、それぞれの心と体、人的要員そうしてお金に余裕がないと、上手に回っていかないということなのだろう。