日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

養育実績と経済的自立。

いつもとても共感できる記事が続くブログ「主夫の日々」のなかで、珍しく違和感を抱かせる記事が先日アップされた。

 

www.kawauchisyun.com

家事・育児のスキルに自信がない、自己肯定感の低い私だからこそ抱いた違和感なのだろう。

 

会社員として社会人時代も、自分の働きをプラスに評価される機会はあまりなかった。(辛うじてゼロではなかったのが、せめてもの救いだ)

正直「家事・育児には価値がある」と言われても、イマイチピンと来ない。

 

きちんと「家事・育児」をこなせているという自負があり、客観的な評価がなされている人間ならば話は別だ。

けれども、きちんと「家事・育児」をこなせている自信がない人間にとっては、耳障りの良い言葉ではあるが、そうそう鵜呑みにしていい話でもないように、私には思えてならない。

 

少なくとも、世間は「特別な資格のない」「シュフ歴の長い人間=無職期間の長い人間」を、積極的に正社員として雇うことはしない。

 

 

 

離婚の際、親権と養育権が「シュフ」ではなく「稼ぎ手」が持つならいざ知らず、そうでないならやはり離婚して得なのは「稼ぎ手」ではないか、と個人的には思うからだ。

 

子供と一緒に暮らせないという最大のデメリットは確かにあるだろう。

あるだろうが、婚姻中も子供と一緒に暮らしていない「稼ぎ手」は少数派だろうが存在する、暮らしていても、仕事が忙しい事を理由に、子供と顔を合わせる機会がほとんどない、顔を合わせてもまともに相手をしない「稼ぎ手」も存在する。

離婚後も、親権を持たなければ、仕事は滞りなく続けることができるのだ。

彼らにとっての離婚のデメリットとは何だろう、と個人的には疑問に思う。

 

 

身近なママからも、単身赴任をしている家庭や平日はタイミングが合わず父親と顔を合わせることがない家庭のエピソードをちらほらと聞く。

 

そんな家庭のママはたいてい、専業主婦かパートタイムだ。

そもそも上の娘が幼稚園に通っているせいか、フルタイムで働くママと親しくなる機会がないので、あくまでこれは私の個人的な見解でしかないのだけれども。

 

「稼ぎ手」が長時間働けば働くほど、主な家事・育児の担い手である「シュフ」が経済的に自立する機会やハードルは高くなっていく。

けれども一方で、離婚の際、親権を勝ち取るために必要なのは「養育実績」である。結果、親権を勝ち取るのは「シュフ」である。

 

子供はかわいい。それはゆるぎない事実だ。

けれども、子供を育てるにはお金がかかる。時間的な余裕も必要だ。

けれども、シングルになると子供にかけられるお金も減る。時間も同時に減る。

シングルマザーの貧困問題や偏見が生まれる背景には、この当たり前の現実を「仕方がない」「そういうものだ」「自己責任」「自業自得」などと言った言葉で、片づけてきた社会や世間、社会福祉の甘い認識があるように、私には思えてならない。

 

私たちが暮らす社会は、皆が皆適切な努力をすれば、平時フルタイムで働いていれば子供を一人ないし二人、健康で文化的な生活を維持しながらシングルで育てられる社会では決してない。

 

 

家事・育児スキルが仕事に役立つと人は言う。

けれども現実は家事・育児というスキルは、現代の社会では評価の対象にはならない。スキル事体にばらつきがあり評価のしようがないからだろう。

なったとしても、保育士やハウスキーパーの時給・年収を鑑みれば、高い賃金を払う対象にはならないと考えていいだろう。

家事・育児スキルそのものでなく、管理能力や時短スキルを例に挙げる人も中にはいる。いるが、その能力もまた個々でばらつきがある。全ての「シュフ」が家事・育児を滞りなくそつなくこなしているわけではないからだ。

 

長い間、世間は社会は会社は「シュフ」は社会性がないとし、労働力としてカウントすることを敬遠してきた。

もちろん「シュフ」として優秀な人は勿論いる。

いるにはいるが、「シュフ」だから優秀なのではなく、優秀な人が「シュフ」をしているだけではないだろうか、と私は思えてならない。

 

そう思ってしまうのは、私自身が、仕事で成果を出せず、主婦としても自信を持てないから、なのだろうか??