日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

「共感」の先にあるもの。

女性は会話に「共感」を求める。

男性は会話に「解決策」を求める。

とはよく聞く話だ。

 

私の場合、友人との会話では特別「共感」を求めることはない。違う意見、解決策をアドバイスされても、何も思わない。逆に、おもしろいな、ありがたいなと素直に思う。そのアドバイスを実行するか否かは別として。もちろん「共感」されて嬉しいなと思うこともある。

相手が夫の場合でも、世間話や時事ニュースに関する話題の時は特別「共感」を意識するようなことは、ない。

 

一方で、「家事・育児」に関する「愚痴」めいた「日常の報告」を夫にする時、表面的には「共感」を求めつつ、本音の部分では、その先にある「夫主導の解決策」を求めていることが多い。

 

けれども、夫の対応は違う。時に共感し、時に「妻(=私)主導の解決策」をもって、「愚痴めいた日常の報告」を好転させるよう導いてくれる。

 

当然、夫にはどうしようもできないことなのであれば、それは単なる「愚痴」として処理されて当然で、「妻主導の解決策」というアドバイスにも、納得がいく。

一方で、特別「家事・育児」に関するものに対しては、単なる「愚痴」とし処理されることに、違和感をどうしても感じてしまう自分がいる。

 

夫は、私の「家事・育児」に関する「愚痴めいた日常の報告」に対し、基本「共感」という名の相槌で返してくれる。けれども、「共感」だけで話が終わってしまう時、「相槌」=「共感」=「私のしんどさの心からの理解」ではないのだな、と思えてならない。

 

「当事者意識」を夫に求めているからこその、違和感なのだと思う。

 

 自分主導の解決策を求めていない人にっとって、ある意味「共感」はとても耳障りの良い言葉だ。だからこそ、表面的な「共感」を人は求めるのだろうか。