傍観者の当事者意識
とても興味深いエントリーを見つけた。
レイプ未遂が起こってしまった。飲み会で、数名が見ている前でだった。
男側が女にちょっかい出す。ボディタッチとか。女、やんわり断ったり離れようとする。男、酔った勢いで強く出て無理やりキス。
女、やめて!と叫んでたけど正常性バイアスってやつなのか、見物人の俺たちは「おーい部屋でやれよw」となんか茶化してしまう。
男、服の中に手を入れたのか女の腹がちらっと見えて、女暴れる。こりゃやばいと見物人の俺たちも目がさめて男をはがいじめにして、やめさせる。
で、尋問タイムなんだけどさ。
男、誰が見てもアウトなのに「ボディタッチ嫌がらなかった」「何度もキスした」「なあ女、俺たち何回もキスしたよな?」とサイコパスみたいな主張してビビる。
女は「怖くて抵抗できなかった。見物人の増田くんたちが笑ってて絶望した。」(これはマジで反省してる)
やばいきんきゅう
「反省している」と結んでいるので、投稿者の男性は、今現在は十分に問題意識を持って大いに反省はいるのだろう。
いるのだろうが、冒頭で「無理やりキスをする男」と「嫌がる女」を見て、”正常バイアス”を理由に、事態の異常性に気が付かず、むしろ男をたきつけ後押しするような言葉をかけている。
当初は、どんなに女性が嫌がっていようとも、お酒の力とその場の「空気とノリ」「嫌よ嫌もよ好きのうち」を言い訳に、「楽しいやり取り」と勘違いしているこの投稿者の男性には、コメント欄で多くの批判を集めている。
お酒の力と「ノリ」と「場の空気」があったからこそ、彼は完璧な第三者として「傍観者」となりえたのだろう。
この場合、投稿者は男性だ。
「場の空気を悪くしたら、今度は自分が被害者に・・・・・・」
などの心配はない。(時として男性も性犯罪の被害者になりうることを知ってはいるけれども)安全圏にいるからこそ、本来であれば、「ノリ」と「場の空気」を言い訳としせず、いち早く事の重大さに気が付かなければならなかったのではないだろうか??
「いじめ」や「○○ハラスメント」などの問題が語られるとき。多くの場合、傍観者は強い非難の対象にはならない。
いじめの場合は特に、例え傍観者であっても、一転して被害者になりうるリスクが常にあるからだ、とされる。
はたしてそうだろうか??
傍観者の中には、常に「明日は我が身」と当事者意識をっているがために、静かな傍観者に徹している人間も確かにいるのかもしれない。
とは言え、中には「絶対自分は被害者にならない!!」と確信犯的にあえて「傍観者を装った加害者」として沈黙を貫いている人間も多いように思う。
いや、沈黙を貫いている人間ばかりではない。
絶対自分は被害者にならないという確信があるからこそ、「いじめ」や「ハラスメント」を「いじり」や「からかい」として、無意識のうちに好意的にとらえようとする人間もいるはずだ。
「絶対自分は被害者にならない!!」と言う確信があるからこそ生まれる「加害者へのあおり行動」は、直接手を下さずとも十分いじめに加担していると言えるのでは、と個人的には思得てならない。
野田市の虐待事件の際、父親からの虐待を積極的に止めることなく、むしろ加担していた母親をひどく責める声が多数上がった。
一方で、「いじめ」や「○○ハラスメント」のような身近な問題を語る際は、「傍観者」はあくまで傍観者として、罪や責任を問われることはない。
彼らには、被害者をかばう義務はないとされる。
時として、「いじめ」や「○○ハラスメント」の中に犯罪行為が含まれているにもかかわらず、だ。
罪を見過ごすばかりではない。
時に加害者をたきつけたり、いじめを楽しいと思わせる「ノリ」「場の空気」作りに一役買っていても、だ。
今回のエントリーの場合。
個人的には、この投稿者の男性も、未遂には終わったがレイプを犯した男と同等の責任があると思っている。
さてどうだろう??
「いじめ」が「セクハラ」が「パワハラ」が起った時。
どれだけの人間が傍観者である自分を、身近な誰かの責任を問えるだろうか??