「手抜きをしたい」のではなく「したくない」
忙しい現代人にとって、とかく料理に関しては、「簡単」「手間なし」「時短」「材料はたった○個」「包丁いらず」「お鍋、フライパン一つでできる」のような魅力的なキャッチフレーズに目が行きがちだ。
けれども。
大変マイナス思考で、かつ面倒くさがりの私にはそんな魅惑的な言葉にさえ、時にプラスには働かない。
建設的で、現実的で、非常に実用的なアドバイスであるのに、心に響かない。
なぜなら、私が心から欲しいのは「手抜きの方法」ではなく「やらなくて済む方法」だからだ。
もっと言えば「自分はストレスを感じず、不快にも思わず、後々のアフターフォローもせずに、効果だけを得られる方法」なのだ。
すなわち「誰か(後々の金銭的負担を考えれば、多くの場合は夫)にやってもらう」方法だ。
どうしても、そこにこだわってしまう。
だから、いくら「手抜きの方法」や「手抜きを手抜きだと思わない思考方法」を目の前に提示されても、あまり心が動かない。
かつて人から、
「0か100かで物事を判断するのは、良くない癖だよ」
と指摘を受けた経験がある。
「0か100かで判断するから、妥協案に納得も満足もできないんだよ」
と言うのだ。
何か別の部分で「100」かそれに近い満足度を得られていないからこその、「100」へのこだわりなのだうか。
相手に妥協の姿勢が見えないからこその、意地の張り合いなのだろうか。
日頃も「手を抜く」選択肢が自分にあり、きちんと「手を抜いている」現状を踏まえると相手に「手を抜いていいよ」と言われても、全然嬉しくない自分がいる。
それは「特別」ではなく単なる「日常」だからだ。
日常から解放されたい私にとって、「日常を続ければいいんだよ」「特別なことしなくてもいいんだよ」はちっとも嬉しい言葉ではないのだ。
だからどうしても、私は人からの「手を抜いていいよ」ではなく「しなくてもいいよ、僕が(私が)やるから」との言葉に魅力を感じてしまう。