料理と自己肯定感
「食べる人の笑顔があれば疲れが取れる」
的な話をする人がいる。
けれども、私は違う。
疲れているときに作った料理を家族がどんなにおいしそうに食べてくれても、私の疲れは取れない。
疲れは取れないけれども、うれしいにはうれしい。
だから、特別娘たちからリクエストがあれば極力こたえたいとは思う。
もっとも、娘たちのリクエストは基本手の込んだメニューでないからこそ言えるのかもしれないけれども。
家庭内で料理を作る人間として、 これは非常に大きなジレンマだ。
私は、自分の作った料理を、おいしそうに食べてもらえると、単純にうれしい。
だから、逆に自分の作った料理を、残されたりして不評だったりすると、単純に悲しい。時に、怒りすら湧いてくる。
反対に、私の母は、自分の作った料理に、家族がどんなジャッジをしようと、目に見えて喜びもしなければ、悲しみもしない。当然起こりもあしない。
ただ、家族の体を考えて苦言を呈しはする。
母の場合、作る料理の基準は、家族の好き嫌いや好みは多少考慮はするものの、「自分がその時食べたいもの」を作るだ。
料理の腕のいい母だ。自分の料理で、自分が満足できるからこそ、料理そのものがあまり苦ではないのだという。おまけに、家族からの不満の声にいちいち心を乱しはしない。聞き流せる。故に今まで多くのストレスを抱えず主婦として料理を続けてこれたのだろう。
きっと、母の自己肯定感が高いからこそ、周囲の反応に振り回されないのだろう。
そんな母がとても羨ましく思う。
そんな母を見習いたいなと思うのだけれども、悲しいかな私にはそれができない。
だからこそ疲れた時に「さして自分は食べたくもない、けれども家族は食べたがっている料理」を作らねばならず、それが苦痛なのだ。
私の食事作りの苦痛は、そんな自己肯定感の低さも大いに影響しているように思える。自己肯定感が低いゆえに「自分が何を食べたいのか」を基準に料理できないのだ。
以前にも書いたが、近ごろは「自分が何を食べたいか」が本当にわからなくなってしまった。
「何を食べたい」の前に、
「手間がかからない」
「お金がかからない」
「家にある材料でできる」
などといった前提条件が頭をよぎってしまう。
次女が幼稚園に通いだしてからというもの、仕事をしていない日の昼食は自分の好きなもの自分のペースで食べれている。
であるにもかかわらず、「自分が心から食べたいもの」を食べれていないように思う。
そもそも、私が疲れているときは特に、食べたいものは、メニューに関係なく「自分以外の誰かが作ってくれたご飯」だったりする。
これはお金で解決もできるが、持続可能なものではない。非現実的だ。
だから私は「夫の作るご飯」にどうしても括ってしまう。
そうしても、夫も「私の作るご飯」に拘る。いや、スーパーの惣社や外食のハードルは私よりも断然に低い夫だ。拘ってはいない。いないけれども、「自分が料理をしない」には拘っているように、私には映る。
もしかしたら私も「夫の作るご飯」ではなくて「自分が料理をしない」に拘っていけなのかもしれない。
もっとも、その拘りが「私だけかなわない」からこそ、夫にいつもモヤモヤ、イライラするのだ。