意地悪を意地悪と感じない人がいる。
受け取り方は人それぞれだ。だが、被害者が「私は被害にあっていない」と主張すれば、それでいじめが、ハラスメントがなかったことになるわけでは、現実問題ない。
メンタルが強い人間が、鈍い人間が、独特の受け取り方をする人間が「私はちっとも嫌じゃなかった」と主張すれば、それですべてがなかったことになるのは、違うのではないだろうか、と私は思う。その現場を見た第三者への影響への問題もある。「あの人は嫌と言わなかったから、自分も他の人にしていいのだ」と解釈、学習してしまうのは危険だ。
昨日こんな質問を見つけた。
夕食時、投稿者はトラブルが起きたため子供と一緒に席を外し(病院への送迎)たのち、再びテーブルに着いたのだが、その際夕食が残っていなかったという話だ。ちなみに、子供と投稿主は食事をほとんどとっていない。
しかも、この状況で、夫と残る子供二人からの謝罪はなかった。八つ当たりのように、夫がぐちゃぐちゃの卵焼きを作り、ソーセージを焼き、喧嘩腰に「てんぷらも上げてやるよ」と言ってはいる。がそこに、謝罪の意は一切ない。
私だったら絶対不快に思うなと思うこの状況だが、コメント欄には驚くことに、
「何が悪いのか全然わからない」
「よっぽど投稿主さんの作ったてんぷらがおいしかったんだね。よかったね」
「てんぷらは上げた手がおいしのだから、逆に残されても迷惑」
との意見もかなりの数あり、驚かされる。
しかも、それらの意見はどこか挑発的ですらある。
だが、考えてほしい。
これが夫と子供、ではなく。姑だったらどうだろう。「悪気がない」と鷹揚に受け取れるだろうか。きっと「嫌がらせに違いない」と非難する声が大多数になるのではないだろうか?
いじめやハラスメントにも同じだ。
同じ行為に対して「嫌だ」「不快だ」と感じる人と、全くそうは感じない人ときれいに分かれる。そうして、後者の人間の声は強気ではっきりしているので、人の目を引きやすい。そのため、その反応が「正しい」と錯覚させられそうになる。
本来であれば、「正しさ」はあってないようなものなのに。
いや、本質的なことを言えば、「正しさ」は本来あってしかるべきなのだ。
虐待問題において、「自分を虐待する親を擁護する子供」の話が出てくる。だが、その子供に対して「あなたが木津着いて伊奈のであれば、それは虐待ではない」と言うのは間違っている。それと同じ理屈がこの問題にはあるのではないだろうか、と私は思っている。
少なくとも、教育的な観点から言えば、夫の子供の行動は間違っている。