日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

悪意ある「連れ去り」と、勇気ある「暴力等からの避難」の違いとは。

離婚時、別居時の「子供の連れ去り」について。

常々思うのだけれども、悪意ある「子供の連れ去り」と、勇気ある「暴力からの避難」の違いとは何なのだろうか??

 

「子供の連れ去り」について、問題視されるのは、引き離される片親にかしつやかがいがないとされるケースのみだ。

勇気ある「暴力等からの避難」は例外的に、この「子供の連れ去り」問題には含まれないとされている。

 

ただ、現実問題として。

誰がこの、悪意ある「子供の連れ去り」と、勇気ある「暴力等からの避難」を線引きするのだろうか。

非常に重要なこの点が、なぜが常にこの議論ではすっぽり抜け落ちている。

現実問題、言ったもの勝ち、連れ去ったもの勝ちの現実があるからこその「虚偽のDVや虐待」問題なのだ。

であるのであれば、赤の他人が、公的な第三者機関が、「悪意のある連れ去りか否か」「正当な避難か否か」をじゃ辞する必要がある。

とはいえ、公的な第三者機関が、物的証拠(写真データ、音声データ、メールやSNS等のデータ、利害関係のない第三者からの聞き取り聴取等)が、配偶者の加害性を確実に証明し、かつそれが認められれば加害者への監視、更生、刑罰等の選択肢があるのであればまだしも、現実問題今の日本ではそれは不可能だ。

被害者が大人ではない、子供への虐待でさえ、児童相談所等の公的機関は正しく機能していない。

 故に、相手からの加害を自覚したものは、公的機関を頼らず、配偶者に相談もせず「子供を連れて家を出る」のではないだろうか??

 

確かに、自分に全く非がないのに、一方的に子供を連れ去られた側の話を聞くと、「問題だ!!」と思う。「気の毒だな」とも。

ただ、その「自分に全く非がない」との主張に客観性はない。事実、DV加害者の多くは自身の加害性に自覚がない。

それ故、疑おうと思えば、いくらでも疑える。だから、この「子供の連れ去り」問題は根深く、賛成派反対派は、永遠に理解しあえない。

 

正直、自分には大きな偏見がある。

「父親に一方的に子供を連れ去られた母親の話」にはとても同情的だが、逆に「母親に一方的に連れ去られた父親の話」には懐疑的だ。

故に、自分でも支離滅裂で、感情的な意見しか書けないのだけれども。

 何より、私自身がまだまだ手のかかる二人の娘の世話に四苦八苦しているのもあって、特別母親に対しては「あえて子供を連れて家を出る理由って、よっぽどの何かだよなぁ」と想像してしまう私だ。例え、母親の両親のサポートが期待できても、母親の両親のサポートは父親の両親のそれとは質というかスタンスが違う。上げ膳据え膳は期待できない。

一方、父親が子供を連れ去るパターンでは「父親の両親のサポートありきなんだろうな、きっと」と想像してしまいたくなる。

 

 

そもそも、加害といっても、わかりやすい暴力ばかりではない。人によっては加害とみなされないものもある。

  • 被害者にも相手に大きな非(浮気、借金等)があった。
  • 暴言を浴びせる。
  • 相手を見下すような言動をとる。
  • 生活費を十分に渡さない。
  • 浮気をする。
  • 極端な家事・育児の不参加。
  • 自分の趣味を優先し、休日あまり家にいない。

等々、アウトとセーフが曖昧なケースも多いだろう。

もっと言えば、よく「子供にとって」との言い回しも非常に曖昧だ。

子供にとってどんなにやさしい親でも「浮気をする親」や「自分の母親や父親を罵倒したり見下したする親」であったり「自分以外の兄弟を虐待する親」は決して「良い親」ではないだろう。

少なくとも、子供が求めているからと言って、自分が母親のお腹の中にいた頃から外に女を作りあまつさえその女と子供まで作った父親を、「子供にとって必要だから」「子供にとってはいい親だから」とするのは、私の倫理観では、何か違う気がしてしまう。

 

何をもって悪意とみなすのか。

何をもって正当な理由とみなすのか。

当事者になってみなければわからない諸事情を全て鑑みて判断されるわけでは決してないだろう。

もし、自分の意に反する判断が下された場合でも尚、「子供の連れ去り」について、今と同じ主張を人々はし続けるのだろうか??

個人的に、状に興味がある。