「夫の、妻の悪口や愚痴を子供に聞かせてはいけない」
「パートナーの悪口や愚痴を子供に聞かせてはならない」との言説をしばし耳にする。
学術的にも倫理的にも、これは正しい。
幼少期に、自分の親(主に母親)から、もう片方の親の悪口や愚痴を聞かされて育った人たちからの、苦い体験談もリアルな世界でもネットの世界でもよく見聞きする。
ただ、と思う。
相手が能力的、体力的、物理的に「仕方がなかった」行為や状態に対しての悪口や愚痴は別として。
相手があえて、相手の意志で、悪意の有無は関係なく、
「倫理的に好ましくない行為」もしくは
「倫理的には全く問題ないが、子供が傷付く行為、嫌な気持になる行為、疑問に思う行為」
「倫理的にはどちらともいえないが、自分がひどく傷付いた、不快に思った行為」
についてはどうだろう。
悪口や愚痴は好ましくはないだろうが、「自分は傷付いた。不快に思った。と意思表明するのは、ありなのではないか、と思うのだ。
もっとも、その意思表明と悪口や愚痴の区別がつかないのが、非常に大きな問題ではあるのけれども。
例えば、
「不倫をした」
「仕事と嘘をついて、一人遊びに出かけた」
「遊びやギャンブルのために貯金を使いこんで、家族旅行に行けなくなった」
なんてことがあっても、夫を妻を悪く言わないのが「正しい」のであり「健全なのか」と問われたら、私は自信がない。
私の母は、子供に父親の悪口を言わない人だった。
いや、正確には「子供だった私達には」と表現すべきか。
二十歳を過ぎた頃から、父の「これってどうなの??」と思う行為に対して母に意見を求めるようになった。すると、母は「快くは思っていない、でも仕方がない」との曖昧な表現ではあるが、母の意見を聞かせてくれるようになった。「でも私は代わりに○○でストレス解消しているからね」とも。私が結婚するころには、時に悪しざまに父を非難しさえした。
彼女もまた自分の夫に思うところがあったのだろう。
私の母も、海のように広い心を持つ聖人君主ではなかったのだ。
ただ、私の母の場合、強いメンタルと、稼ぎのある夫、そうしてその夫の稼ぎを自由に使える、などのいくつかの条件や環境が整っていたからこそ、私たち子どもが幼少のころはぐっと我慢できたとも言える。
私が今になって一番驚かされるのは、父の旅行だ。父は数年に一度、後には毎年のように一人で海外旅行に行っていた。それだけならまだしも、家には自分の母親であり、母にとっての姑を残しての旅行だ。おまけに、その姑である祖母と母はお世辞にも良好な関係でなかったにもかかわらず、だ。
自分を母と重ねると「よく文句の一つも言わずにいられたな」と私などは思ってしまう。
当然、その頃の母は一人で旅行などしない。できない。
その分、今は存分に好き勝手しているのだけれども。
そんな幼少期の母親の「正しい」の姿を見て、「できた人だな」「すごいな」「ありがたいな」と尊敬し、感謝する気持ちがある反面、「母のように振舞えない自分への罪悪感というか、自己嫌悪みたいな違和感」を抱えてしまう自分がいる。
これは大いなる言い訳であるし、屁理屈なのだけれども。
私の「人の顔色を見る悪い癖」は、もとよりの性格だけでなく「幼少期に夫の文句を大ぴらに言わない母親」の影響も多少あるのではないかな、と思っている。
結婚生活においては特に、どんなにもやもやした出来事があっても、私の中で「これくらいは我慢しないといけないのでは??」とのブレーキが常に付きまとう。
それは、自分の母親が我慢していたからだ。少なくとも、そのイライラやもやもやを中長期的にではあるがうまく発散しる。
私は、まだまだ母のようにそのイライラやもやもを発散するベストな方法がない。それが一番の問題なのだろう。