小食・偏食を個性として受け入れる勇気。
小食は別として。
偏食や好き嫌いの多さは、「直すべきもの」とされる。
「好き嫌いなく、何でもよく食べる」のは、健康にもよい。
「よいこと」「推奨されていること」とされる。
特に子供に対しては「健全な心と体の成長」への影響もある。
「好き嫌いなく、何でもよく食べる」のは望ましいのであろう。
とはいえ、小食・偏食・好き嫌いが多くても健康な人間はいる。
何でもよく食べる人にも、病気の人、不健康な人もいる。
健康に良いとされる食材は日々更新される。それらをまんべんなく毎日・毎食採ることは不可能だ。
栄養学の素人にとって、「栄養満点の料理」を間違いなく作るのも難しい。
けれども、多くの家庭では主婦や主夫、母親が「栄養満点の料理」を間違いなく、おまけに美味しく作るのを前提に回っている。
と同時に、 特別子供がいる家庭の場合、作り手が努力と工夫をすれば、小食・偏食は克服できるものであるという前提もある。
だからこそ、ネットや書籍では、
「子供が喜ぶ!!」
「子供がパクパク食べる!!」
などの謳い文句が並んだ新しい料理が日々発表されているのだろう。
子供のおなかがすいていて、かつ
「味が美味しくて」
「子供が好むメニューで」
「子供が好む味付けで」
「子供が喜ぶ盛り付けで」
あれば、 「子供がご飯を残すはずがない」ぐらいの勢いが育児本や食育本にはある。
そこには、
「子供がご飯を食べないのは親が作る料理がまずいからだ」
「子供がご飯を食べないのは親が美味しい料理を作る努力を怠っているからだ」
などのマイナスなメッセージが見え隠れしているように思えるのは、私だけだろうか??
対大人あってもだ。
極端な偏食の人を前にしたら、多くの人は内心「親はどういう教育・躾をしたんだろう」と眉を顰める。
「偏食は親の責任である」と考え、自己責任と本人だけの問題とし片付ける人は少ない。
と同時に、偏食は本人の健康問題だけにとどまらない。
食育の延長線上にある、「残す」「捨てる」ことへの罪悪感、そうして料理の作り手への感謝の強要への問題もある。
飽食の時代に生まれ、子供の頃から理由もないのに(アレルギーであったり、食べたら体調を崩したり)食べ物を「残す」「捨てる」のはよくないと、学校や家庭で食育として教育されてきた私達だ。
小学校では、学校を上げて「残飯ゼロ」を目指し、あの手この手で給食を残さない工夫と努力をクラス単位で行っていた記憶がある。
苦手なおかずを盛り付けの段階で量を調節してもらったり。
最後まで残った人気のないおかずを、給食が終わるまで各班を永遠に回したり。
残飯の量を数値化し、教室に張り出したり。
私達は幼少期の頃から、「残すこと」「捨てること」への罪悪感を日常的に刷り込まれてきた。
「躾」と「教育」の名のもとに。
また、個人的な感覚・感想として、作り手の立場で考えてみても、やはり「美味しく食べてほしい」し「感謝してほしい」と正直思う。
でも、改めて一歩引いて考えてみるとどうだろうか??
食べる人の立場に立ってみたらどうだろう??
「何かを食べ、どう味を感じるか」は、人によって当然違う。
自分が、
「美味しいと思ったもの」
「一生懸命作ったもの」
を相手が同様に感じ満足し、喜んでくれるわけではない。
その事実を受け入れ、感謝を強要しない努力をすべきなのだろうか??とも時折思う。
けれども人として、娘達には感謝ができる大人になってほしいし、作り手の気持ちに寄り添って、 相手に敬意を持てる大人になってほしいとも思う。
自分の気持ちに正直な人間になってほしいのか。
相手の気持ちをおもんばかれる人間になってほしいのか。
きっと、両方できる人間が理想なのだろうけれども。
小食・偏食を個性として受け入れる勇気が「自分」にあり。
小食・偏食を個性として受け入れてくれる勇気が「世間」にあれば。
自分の正直な気持ちを出しつつ、作り手に敬意を表すことができるのだろうか??